~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
わいわい天王 Part-03
歳三は道場わきの一室に案内されたが、ふと気が付くと、あたりが薄暗くなっている。が、茶も運ばれず、行燈あんどんも入れてくれない。
(奇態だ)
と思った瞬間、この軽捷けいしょうな男は、窓から外へ飛び下りていた。
(はて)
あたりを見まわした。
どうやら道場の奥になっているらしく、歳三が足の裏に踏んだのは畑のやわ・・土だった。
すぐ眼の前に井戸があり、そお向うに甲州の山々が西の空に暮れはじめている。
小仏峠の上に、三日月がかかっていた。
歳三は勝手のわからぬまま、軒下を西へまわってみて、あっ、と足をとめた。そこに小さなクグリ戸があり、その板塀いたべいの向うに道場主比留間半造の屋敷の棟が見え、白壁を背景に黒松がのぞいている。
歳三が不意に足をとめたのは、その巨大な黒松を見たからではない。その松の大枝の下のクグリ戸がカラリと開き、女が出て来たからだ。
おせん・・・である。八王子専修坊の娘で、歳三とは、一、二度ほど男女の縁があった。この比留間半造にかたづいてきてからおせんを見るのは、今が初めてである。
武家の妻女らしくなっていた。
それに、歳三が内心驚いたのは、おせん・・・の落着きぶりであった。
歳三をじっと見ていたが、何も言わずホッと手燭てしょくの灯を消し、ひたひたと近づいて、
{あなたさまのことについては、なにもかも当道場に知れております」
と低声で言った。
「・・・・?」
「師範代と七里研之介どのが、六車宗伯どののあだを討つと申して騒いでいる様子でございます。六車どののこと、あなたさまに覚えがあるのでございますか」
「・・・・・」
「いずれにせよ」
と、女は言った。
「早くここからお逃げになることでございます。その井戸端のところを真っすぐに突っ切って飛び下りれば、低いガケになっていて、あとは一面の桑畑でございます」
「そなた、たしか、あだと申したな」
せん・・でございます」
滑稽こっけいなことに、この女は、歳三が薬売り当時によぼう・・・た女だけに、体の記憶はあるが、名まではうろ覚えなのである。
(容貌かおを見たい)
と思ったが、すでに暮れ果てていてそのおもいは達せられそうにない。
におぶくろこうだけは、におう。その匂いが、かつてこの女の寝間を襲った頃の記憶を辰三によみがえらせた。
(あれァ、寒い頃だった)
専修坊の庭がありありと眼に浮び、女はその離れに居た。夜這よばいは武州千年の田園のふうだから、歳三はれている。女は熟睡していたが、いざとなって歳三にあらがわなかった。前夜来から寺に泊まり込んでいる、この若者が、今夜忍ぶことは娘のカンで察していたのだろう。
「おい」
と、歳三は、たまらなくなった。
「いけませぬ」
と、比留間半造の内儀は、言った。この武州多摩地方の女は、娘の間はさまざまなことがあっても、ぬし・・をもって家に入ってしまえば、どの土地の女よりも固いと言われている。
歳三もすぐ苦笑して、
「悪かった」
と素直にあやまった。
が、そう素直に出られると、女にすればかえって始末が悪かった。それを警戒していた緊張心が一時に弛んだのか、
「「土方さま」
と、歳三の手に触れた。握れ、というのだろう。が、歳三の眼はにわかにすわった。
「なぜわしの姓を知っている」
「土方歳三どのでありましょう。ちゃんと存じております」
「なぜ知ってい」
「なぜとは?」
「なぜ知っている、というのです」
性分しょうぶんで、そんなことが、気になる。
七里研之介どのから聞きました。あなたさまは薬売りではありませぬ。江戸小石川柳町の近藤道場の師範代土方歳三どのでありましょう」
「─── ?」
まゆをひそめたのは、背後で物音を聞いたからである。と同時に歳三は、おせん・・・のそばを離れた。
影のように走って道場裏のガケを飛び下り。
おせん・・・が歳三の機敏さに驚いた時は、すでに当人は、小仏峠の上の月をおそれつつ、桑畑の中を歩いていた。
2023/07/07
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