~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
わいわい天王 Part-04
歳三は、江戸道場で、数日過ごした。
歳三と入れ替わって、近藤勇が多摩方面の出稽古の行ったが、ほどなく戻って来た。
農繁期で、思ったより人が集まらなかったという。
「そいつは、ご苦労だったな」
と、歳三が言った。
「ほかに異変がなかったかね」
「とは?」
近藤は、男特有のにぶい表情で、
「そうだ、忘れていた。日野宿の佐藤屋敷に寄ったら、お前のあにさんが来ていた。いや喜六さんの方じゃない。石翠せきすいさんだが、ちかごろとしの野郎ちっとも家に寄りつかねえな、どうしやがったんだろう、なんて云っていた」
石翠は、歳三の長兄である。
生まれついて眼が見えなかったから、跡目を次弟にゆずり、庭の見える八畳の間を一つ貰って、道楽に三味しゃみ をひいたり、義太夫ぎだゆうを村の連中に教えたりして暮らしている。これがなかなか洒脱しゃだつで、盲人とも思えぬほどに世間のことに明るい。
歳三はカンで、この石翠が、なにか近藤に言ったと見て、
「あの兄のことだ、云ったのはただそれだけじゃなかろう」
「ふむ・・・」
近藤はしばらく考えている風情ふぜいだったが、やがて、
「歳さん、お前、人を殺したな」
歳三は黙っている。
「六社明神の六車斬りは。歳の仕業しわざじゃねえか。と石翠さんがこっそりと言っていた。ちかごろ、八王子の甲源一刀流の連中がしきりと石田村に入り込んで来ては屋敷うちを垣間かいまのぞくそうだ。石翠さんは、お前を探しているのだろうという。わしは、まさか、と言っておいたが」
「いや、私の仕業だよ」
「・・・・」
今度は近藤が黙る番だった。この上石原生まれのあご・・の大きい男は、勝太といった昔から、驚くと表情いろには出さず、尻を掻く癖があった。
「本当か」
「水臭いようだが、今まで黙っていた」
「なぜだ」
「道場に迷惑かけたくねえからさ。これは聞かなかったことにしておいてくれ。あの始末は、おれがつける」
「よかろう」
武州、上州は、流儀の間での喧嘩沙汰けんかざたが絶えない。近藤は、馴れている。
よかろう、と言ったが、そのあと、近藤は沖田総司を呼んで、事のあらましを告げ、
── 歳三の野郎は気負っているようだが、なにしろ相手は多勢だ。歳に万一のことがあれば流儀の名にかかわる。
── いいですとも。あの方面へ行って探索しておけ、ということでしょう。
沖田はこの男一流の陽気な笑顔で何度もうなずき、その日のうちに道場から姿を消した。
数日経って、江戸へ戻って来た。近藤に何事か報告した後、よほどほうぼうを駈けまわって来たのか、道場裏の部屋に引籠ると、さっさと蒲団を敷いて寝てしまった。
翌朝、井地端で歳三を見て、ぺこりと頭を下げ、おはようございます、と言うと、いきなり小声で、
「土方さんも物好きなお人だ」
とからかった。
「なぜだ」
「妙な芸人と知り合いだからさァ」
「なんだ、その芸人とは」
「わいわいの天王てんのうのことですよ」
沖田の言うことがわからない。
「なんだ、わいわい天王とは」
沖田は、可愛かわいくちびるでにこにこ笑っている。
「お面かぶりとは、九品仏くほんぶつのか」
「そうじゃありませんよ。にぶいな。土方さんは俊敏だけど、ときどき人変わりしたようににぶいところがあって困る」
沖田は、洗面をすまして、さっさと道場に入ってしまった。
2023/07/08
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