~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
分倍ぶばい河原がわら Part-01
面の男は、凝然と立っている。
縁側に、である。
らんと光る黄金の巨眼をこちらに向け、身動きもしない。
(ふん、おどかしやがる)
歳三は、吸物をすすった。面の男の方には、見向きもしない。
豪胆といえばそうだが、歳三は、変にこういう事態になると、すねるところがある。
子供が拗ねているような顔つきで、憎々し気に吸物をすすっている。
「土方さん」
沖田総司が、たまりかねて言った。
「お客さまですぜ」
「御用件を聞いてみろ。どうせ、変に江戸弁の混じった上州なまりで答えてくださるはずだ」
七里研之助、ということを歳三は、カンで気づいていた。
最近、この甲州街道筋の多摩の村々で、わいわい天王が群をなして出没しているという話を聞いた時から、
(おれをさがしているな)
と、気づいていた。七里研之助を塾頭じゅくとうにしている八王子の甲源一刀流の連中が、歳三を見つけ次第、六車宗伯の仇を討ってしまおうと計画しているのだろう。
「しかし、大胆なやつだ」
歳三は感心もした。
この佐藤屋敷(いまも佐藤家は東京都下の日野市に現存しているが、当主は郵便局長で、古い屋敷は取り壊され、瀟洒な鉄筋の局舎にかわっている)は、甲州街道きっての大名主で、長屋門ながやもんをがっしりと構えた郷士屋敷であり、へいも高い。邸内には、手代、下男、作男があまた住んでおり、容易に忍び込めるものではない。
「なんの用事だ」
と、沖田は、わいわし天王に言った。
十五夜の満月が、このお面男の右肩の上にかかっており、中庭の松が、月の光っている。
「ご苦労だが」
はじめて猿田彦の面は、声を出した。なるほど声は七里研之助である。
「ご足労とは?」
「黙ってついて来てもらおう」
「どこへです」
沖田は、育ちがいいから、言葉がいい。ちょっと色小姓にしたいような美貌びぼうである。
「あんたは、天然理心流の沖田総司君だな」
「ご存知ですか」
沖田は、にこにこした。この若者も、肝の在りどころが変わっているらしい。
「幸い、ここに御流の師範代がお二人まで揃っていらっしゃる。御流には、われわれ、遺恨のことがある。晴らしたい」
「あなたは、どなたです」
「そこで箸を動かしている土方歳三君がご存じのはずだ」
人を、君づけで呼ぶ。
近頃、諸方を横行している尊攘そんじょう浪士の間で流行はやりだした言葉で、案外七里という男は、固陋ころうな上州者に似合わず、新しいことに敏感な男なのかも知れない。
「薬屋」
こんどはそんんじゃ呼び方で、歳三を呼んだ。
「六車殺しの証拠はあがっている。おれが代官所に訴え出れば、それでカタがつく。が、われわれ比留間道場は、それを慈悲でせぬ。安堵あんどしろ」
「・・・・」
2023/07/09
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