~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
分倍ぶばい河原がわら Part-03
分倍河原までは、二里。
夜道だから、時間がかかる。歳三と沖田は、早目に日野の佐藤家をこっそり出た。
見事に晴れた月夜で、道が白々と見える。歳三はせっかく用意した提灯を退き消して、
「相手は、たしか二人かね」
「驚いたなあ」
沖田はいつもほがらかだ。
「なぜ驚く」
「存外お人好ひとよしなんですね。どうせ大人数だ。きまってますよ。あの悪たれ八王子の連中が、約束通り二人で来るなんてことが考えられますか」
「それもそうだな」
なるほど変装するにも事欠いてわいわい天王に化けたり、天然理心流の縄張なわばりに食いこもうとしたり、やることがどう考えても下司下根げすげこんである。仇討仇討あだうちに事寄せ、沖田と土方さえってしまえば、多摩の村々は甲源一刀流の地盤にかわると思っているのだろう。
「しかし」
歳三は、にやりと笑った。
「総司はどっちが好きだ、小人数と大人数とは」
「大人数ですな。もっともこれは夜にかぎる」
夜、こちらが少人数で斬り込めば、大人数の方は敵味方がわからず狼狽ろうばいするばかりで、かえってばたばたと斬られる。沖田は、そういう智恵ちえがあるらしい。
「よく知っているな、お前は」
寄席よせの講釈で聞いた智恵ですよ。近頃、世間が騒がしくなってから、妙なことに寄席の客は武士が多い。武士が多いもんだから、芸人の方も、太平記や三国志を読む。土方さんもときどき覗いたらどうです。いっぱしの軍略家なりますぜ」
「ふん」
軍略など天性のものと思っている。歳三は、ひそかに自信があった。この天分を使わずに一生を送るとしたら、歳三は死んでも死にきれない。
甲州街道を、今の西府農協のあたりまで来た時、
「おい、右へ折れよう」
と、あぜ道へ入った。そろそろ予定戦場に近いから、本街道上をのこのこ歩いていると敵の待伏せにかかるかも知れない。闇討やみうちちを食うか、それとも物見に見つけられて、到着するまでの足取りがすっかりわかってしまう
くらますんだ」
夜露にびっしょりとれながら、草を踏んで南へ南へとさがり、ちょうど十五、六丁も歩いた辺りに野の中に墓地がある。今でもあるが、野寺の名は正光院しょうこういん
歳三はここの寺男のごんという老人を知っている。年寄りのくせに小博打こばくちが好きで、近在の村の賭場とば袋叩ふくろだたきになっているのを、ちょうどその村に剣術指南に来ていた歳三が救ってやったことがある。
叩き起こして権を墓地へ連れ出し、
「分倍橋のほうへ行って来い。怪しまれぬように寺の提灯をさげていけ」
と、云い含めて斥候ものみにした。
分倍橋は、この闇の向う五丁ばかり東にあり、そこまでは一面の田圃たんぼで、ところどころ、水溜りが、キラキラと月に映えている。
墓地は草深い。
石塔、卒塔婆そとばの間に歳三は坐り込み、沖田にも坐らせた。
「総司、提灯にを入れろ」
地面を照らさせた。
歳三はその地面を古箸ふるばしでひっ きながら、器用に地図を描いた。
「これが分倍橋付近だ。見えるか」
地図には、道がおそろしく入り組んでいる。
この分倍橋と言うのは、名こそ河原とついているが、現実の多摩川の河原はずっと南にあって、二、三百年前から田圃になり、点々と村まである。
古来、戦場になったことが多く、今でもときどき畑の中からよろいの金具、刀、人骨などが出ることは、沖田も知っている。
知っているどころか、先日の講釈の太平記はちょうどこのクダリだった。南北朝時代の昔、元弘三年五月、久米川の方角から押して来た南朝方の新田義貞がこの分倍河原で鎌倉勢と戦って利あらず、いったん堀兼ほりかねまで退いて諸方の兵を募るうち、相模さがみから三浦義勝が六千余騎を率いて参加、義貞大いに喜び、十万騎の軍を三手にわけて分倍河原の敵陣を襲い、大いに鎌倉勢を破った。世にいう分倍河原の合戦とはこのことである。
「この分倍河原は、平方でいう衢地くちだ」
と歳三は説明した。
衢地とは諸街道が、三方四方から入り込んで来てそこで合流する地点をいう。軍勢を動かしやすいから、こういう場所では、古来代大会戦が行われることが多い。美濃みのの関ケ原にしてもそうである。
甲州街道とその枝道のほか、鎌倉街道、下河原街道、川崎街道などが、ここで合流したり、この付近を通っていたりする
2023/07/11
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