~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
分倍ぶばい河原がわら Part-04
「これが分倍橋ですな」
沖田は、覗き込んだ。実をいうと沖田ははらの中で感心している。敵がいかに多数とはいえ、たった二人で斬り込む仕事に、いちいち地図を作って作戦を考える歳三に感心したのである。
(この人は、単なる乱暴者ばらがきじゃねえな)
と思ううち、権ィが戻って来た。
「えらいこッた」
爺ィは、歳三のそばに坐り込み、
「夜だからはっきりしたことは云えねえが、諸所方々の人数を入れると、二十人は居るンじゃねえかな」
ただし橋の上は二人だ、と権爺ィは言った。
しかし、土手の下、付近に十数軒はある百姓家の軒蔭のきかげなどに、三人、四人ずつひそんで、息をこらしている様子だという。
「どの方がぅに方角に、人数が多い」
「分倍橋の北詰めだね。土手下、けやきの木の蔭などにむらがっている」
「そうだろう」
旦那だんなにゃ、わかるンですかい」
「まあ、な」
べつに爺ィに自慢する気もなかったが、歳三が想像していたとおりだった。相手は、歳三らが、甲州街道を府中の手前でれて鎌倉街道に入り、南下して分倍橋に至るものとみている。それが常識だ。
「よかった」
沖田は、鼻唄はなうたを歌いだした。
「唄はやめろ」
「怒らないで下さいよ。土方さんは大した軍師だ。と感心したンです。さっきあのまま甲州街道から順どおりの道を歩いていたら、その橋の北で押し囲まれてズタズタにされているところだった」
「権爺ィ」
歳三は、地図のる一点をおさえた。橋の南である。
「ここは手薄だろうな」
「そのとおりだ。人影も一つ動いていただけだった」
「ふむ」
歳三は地図を睨んでしばらく考えていたが、やがて奇想が浮かんだらしく、ふところに手を入れて巾着きんちゃくをつかみ出し、
「権、とっておけ。この一件、口が裂けても口外するンじゃねえぞ」
「わかっています」
権は、闇に消えた。
「総司、川づたいに斬り込むのだ。お前は川上から、おれは川下からジリジリと寄ってきて、橋の下で遭えるようにる。そこから土手をけ上って、土手の蔭にひそんでいるやつを斬るのだ」
「なるほど」
沖田は利口だから、すぐ了解した。それなら、敵の不意をく。
だけでなく、土手かげにひそんでいる敵は弱いはずである。つまり、敵の布陣を想像するに、最も腕達者は、橋の上にいる。おそらく一人は七里研之助であり、いま一人は、道場主の比留間半造であろう。この二人は、オトリになっている。同時に、この人数配置から見れば、この橋上が指揮所なのだ。
その次に腕の立つのは、橋の北詰にひそんでいる連中だ。この連中は、押し包んで討ち取る役目だからである。
そうみれば、土手下にいるのはいわば予備隊で、最も使えない連中に相違ない。
小人数で敵陣を襲う場合、二つの方法がある。まっしぐらに大将をたおして逃げるのが良策の場合と、弱い面を切り崩して、数の上で敵に打撃を与える場合のふたつである。
歳三は、後者をとった。
「まさか、橋の上の連中は、川から上って来るとは思うまい。手近なやつらを切り崩し、切崩ししてから存外もろいような比留間か七里のどちらかを斬り崩す。相手の備えが固くて無理なようなら、四、五人斬ってから逃げるのだ」
「落ち合う場所は?」
「この墓地だ」
歳三はわきに置いてある風呂敷包ふろしきづつみを指し、
「これに着更きがえが入っている。どうせ着物は血でどろどろになるから、夜明けに歩けたもンじゃないここで着更えて、そのまままっすぐに江戸へ帰ってしまおう」
そう言ってから、呼子笛を一つ沖田に渡し、
「もし離ればなれになったとき、おれが吹いたら、退きあげの合図と思ってくれ。お前が吹いたら、お前の危ねえときだ。すぐ助けに行く」
二人は出発した。
2023/07/12
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