~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
月 と 泥 Part-01
どこまでも、あぜ道がつづく。
歩きにくい。
土方歳三と沖田総司は、うようにして敵のいる分倍橋に近づいた。
空は海のように晴れた星月夜なのだが、それでも雲が二きれ三きれあって、それがときどき、月を隠す。
そのつど、下界の武州平野は闇になる。
闇になるたびに、歳三と沖田は、申し合わせたように田へころがり落ちた。足腰も胸も泥だらけになった。
「ひでえ」
沖田は泣きべそをかいた。
「まるで泥亀どろがめだ。これでにゅっとあらわれたら、先様さきさまの方がびっくりなさるだろう。ねえ、土方さん」
「黙ってろ」
「無茶だよ、土方さんの軍略は。さっきめて損しちゃった。講釈にはこういう軍談はなかったなあ。これはくすのき正成まさしげを始祖とする楠流ですかい? それとも、武田信玄好みの甲州流ですかい」
「土方流だ」
「よかァねえよ、泥亀流だよ」
沖田総司は奥州おうしゅう白川藩の浪人となっているが、亡父は江戸詰めの御徒歩おかちだったから、沖田は生まれついての江戸っ子なのである。歳三のような武州の在家ざいけ育ちとちがって、よく舌がまわる。
── 歳三と沖田がいま這い進んでいるのは今日こんにちでいえば分梅ぶんばい町三丁目のまんなかぐらいだろう。
まだ分倍橋まで、三、四丁はある。
急に足もとの土の感触がかわった。
(・・・・?)
ふと、桑畑になっている。歩きいい。やがて月光の下に分倍橋のたもとのけやきの巨樹が見えて来た時、歳三は、
「総司、そこが河原だ。この辺で別れよう」
と言った。
沖田はここから迂回うかいして川上へまわる。歳三は川下から接近する。敵の集団をはさみ撃ちにするのである。二人が川床を這ってうまく橋の下で落ち合った時、白刃はくじんをつらね、一気に土手へ駆けあがって斬り込む、という寸法だった。
「いいな」
「うん」
沖田は、ぼんやりしている。
無理もなかった。沖田は、いかに道場剣術の俊才とはいえ、白刃の下をくぐるのは、今がはじめてなのである。
「こわいのか」
「まあね。私は土方さんのように、いっぺんった人間じゃないですからね。しかし考えも及ばなかったなあ。私の一生で人を殺すような羽目になろうとは。いったい、どうすればいいんです」
「やってみれァ、わかる。これだけは、口ではわからねえ。とにかく、られねえようにするより、る、ってことだ。一にもせん、二にも先、三にも先をとる」
「土方さん」
と、沖田は妙な声で言った。
「なんだか変だよ。おしりの菊座のあたりがむずむずしてきちゃった。変にそこだけがふるえるようなかゆいような・・・」
「こまった坊やだな」
「失礼ですが、そこの桑畑で済ませてきますから、待っててください」
「はやくしろ」
と言ったが、歳三も下腹のあたりが怪しくなってきた。
(いまいましいが、沖田に誘われたらしい)
やっておくことだ、と思って桑の老木のそばにしゃがむと、おどろくほどしばで、沖田もしゃがんでいる。
「土方さんもですか」
「ふむ」
「初心の泥棒なんざ、侵入はいる前につい下っ腹にふるえがきてらしてしまうと聞きましたが、ほんとうですね」
「だまってろ」
たがいに、なまなましいにおいをぎあっていると、なんとなく慄えが去り、度胸がすわってきた。
(さて。・・・)
身仕舞をし、念のために刀の目釘めくぎをしらべた。
「総司、もういいだろう」
「いいですとも」
底抜けに明るい声にもどっている。
歳三は、沖田とわかれて、河原へおりた。
川床はしらじらと砂地で、真中に一すじのみぞのような川が流れている。橋の下まで、ほぼ一丁。
一方、沖田は、桑畑の中をかがみ腰で突っ走った。大きく迂回して、川上へまわるためである。
風が、出はじめている。
2023/07/12
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