~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
月 と 泥 Part-02
歳三は、月が雲間に入るたびに走り、やっと橋の下に駈け込んだ。
頭上に橋板がある。
みしみしと足音がするのは、比留間半造か七里研之助だろう。
月は、ここまではしこまない。
歳三は、橋脚の一本を抱くようにして坐った。
土手にも路上にも人がいるらしく、あちこちから低い話し声が聞こえて来る。
(不用意なやつらだ)
と思ったが、敵は敵で、声を出し合っては恐怖をまぎらわしているのだろう。
(これァ、伊香保いかほ以来の大喧嘩げんかになるな)
そういう事件が、上州にあった。
千葉周作が諸国遊歴時代、上州に足をとどめて門弟をとりたてた。文政三年四月、周作二十七歳の時である。
上州は武州と同じく好剣の国だから、村々から有名無名の剣客があらそって弟子入りし、滞在十日で、百数十人に達した。
周作は、まだ若い。
老熟後の周作ならそういうことはなかったろうが、当時衒奇げんきがあったのだろう。自分の創始した北辰一刀流の威風を見せるため、その弟子入りした上州剣客百数十人の名を刻んで大額をつくりあげ、これを近在の伊香保明神の社頭にかかげようとした。
驚いたのは、上州真庭まにわの土着の剣客である、真庭十郎左衛門である。これは念流の宗家で、十郎左衛門は十八代目。
上州の剣壇は、永年、この真庭門で押さえて来たが、真庭としては、その門弟のほとんどを周作に取られた上、名を刻んで社頭で公表されてはかなわない。
その納額を阻止するため真庭十郎左衛門は国中の門弟三百余人を集め、伊香保の旅館十一軒を借り切って千葉方の百数十人と対峙たいじし、さらに後詰ごづめとして土地の博徒ばくと千余人を地蔵河原に結集させた。
まるで合戦である。
今にも千葉方の旅館に押し寄せそうな気勢だったが、周作はそこは江戸人で、田舎剣客と争っても後々利のないことを考え、単身上州を脱出した。
が、歳三は、江戸人ではない。
相手もそうだ。
甲源一刀流と天然理心流という田舎剣客の争いだから、互いに血へどを吐いて斃れるまでやる気でいる。
(おう。・・・)
歳三が気づくと、沖田が足もとまで這い寄っている。
── 私です。
沖田は歳三に抱きつくなり、耳もとで、
── そこに二人います。
と、土手のかげを指した。
「よかろう。あれを血祭りにした後、おれは川を跳び越えあっちの土手から這い上がる。いいか」
「ようがす」
沖田と歳三は、橋の下の闇を離れ、二人の左右にまわった。
「おい」
と声をかけた。二人それぞれに振り向かせてから、沖田は、
「沖田総司、参る」
あざやかに胴を払って斃した。水際立った腕である。
「土方歳三、参る」
歳三は、踏み込んで左袈裟ひだりげさに斬り、トントンと飛び退がるなり、川を一足で跳び越え、向う土手の草を掴み、大またに這い上がった。その身ごなし、まるで喧嘩をするために地上に生まれて来たような男である。
路上では騒いでいる。
奇襲は成功した。相手は、歳三らが意外な所から這い上がって来たのに狼狽ろうばいしたばかりか、二手にわかれているために、どれほどの人数が来たかと思ったらしい。
歳三は、路上に這い上がった。
眼の前にけやき斥候ものみではもっとも人数が多い。その一部は、土手下の悲鳴を聞いて河原へ駈けおりている。
歳三は、すばやく欅下に飛び込んで、黒い影を一つ、真向から斬りさげた。
相手は、すごい音を立てて地上に倒れた。一太刀で絶命したらしい。
すぐに死体に駈け寄って、相手の刀を奪った。
(こいつは斬れるかな)
自分の刀は、さやにおさめている。粗っぽいにわか研ぎだけに斬れ味に自信がなかったのだ。
2023/07/12
Next