~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
月 と 泥 Part-03
歳三は、欅のかげを離れない。
木の下闇とはよく言ったもので、対手からは見えないし、自分からは、月下の路上や橋の上に走り動く影が、昼間のようにみえる。
(織るように走ってやがる)
歳三は、飛び出した。
手近のやつの腰をぐわっと払ったが、よほど硬い百姓骨なのか、刃がびんと返って斬れなかった。斬られた男は背を反らして五、六歩よろよろと走っていたが、そこまで来てはじめて恐怖がおこったのか、きえーつと叫ぶなり、
「そこだ、欅の下にいる」
(仕損じたか)
歳三は、すばやく橋の下に戻った。
悲鳴を聞きつけてばらばらと四、五人駈け寄って来たが、樹の闇が深くて近寄れない。月の下では、樹は城の役目をするものだ。
── 取りまけ。
落着いた声が聞こえた。
七里研之助である。
そのうち、だんだん人数がふえてきて、十四、五人になった。
「深津」
と七里は、門人らしい男の名を呼んだ。
「火の支度をしろ」
樹の下を照らすつもりらしい。
深津、と呼ばれた男は、人数の背後にまわると、地面にかがんで燧石いしを撃ちはじめた。
わら・・束に煙硝を仕込んである。点火するとぱっと燃えだした。
歳三はすばやく樹の裏にまわったが、足もとはがけになっている。
(いかん)
戻ろうとした時、すでに深津、という火術方は、わ松明たいまつをあげて、樹の根に向って投げようとしていた。
その差上げた右腕が、わっと落ちた。背後に沖田がまわっている。
あの坊やが、と歳三があきれるほどの素早さで沖田は、手槍てやりを持ったその横の男を斬りさげ、同時にわら・・松明を大きくって河原へ落した。
あたりは、もとの闇になった。
闇になったと同時に、歳三は樹の下から突進して、七里とおぼしき大きい影に斬りかかった。
存分に撃ち込んだつもりだったが、七里の撃ち込みの方が激しく、一旦は歳三の刀を払い、崩れるところを面に来た。あやうく受けた時、
ばっ、
と火花が飛び、歳三の刀がつば・・元からたたき折られた。
(いけねえ)
飛びさがった。
(とんでもねえ百姓刀だ)
キラリ、と自分の刀を抜き終わるまでに右手の男に殺到していた。
どっと、そのあたりが崩れ立ったが、歳三は五、六度闇くも・・に振りまわすうちに、何人かの、手、腕、肩を傷つけた。
沖田は、歳三の背後にまわっている。互いにかばいあって、敵を寄せつけない。
「総司、何人斬った」
「三人」
落着いている。
「が、土方さん、変ですよ」
云いながら、前に来た男を右袈裟に斬り、
「ほら、変でしょう」
と言った。
「なにが」
歳三も、ようやく息が切れている。
「刀が、棒のようになっている。奴ァ、死んじゃねえんだ」
あぶらが巻いたんだろう。そろそろ」
「そろそろ?」
また一人、沖田へ撃ち込んで来た。その出籠手でごてを沖田はあざやかに撃ち落としてから、さっと飛び退がると、
「そろそろ、何です? 土方さん」
げるか」
「それがいい。私はもうこんなの、いやになった。こわくなってきましたよ」
そのくせ、沖田の太刀筋は糞落着きにおちついている。
「遁げろ」
いうなり、歳三は飛び込んで、前の男の顔を右こめかみ・・・・から叩き割り、のぞけったその死骸を踏み込んで土手の上を走った。
すぐ下の桑畑に飛び下りた。
2023/07/13
Next