~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
月 と 泥 Part-04
沖田もついて来る。
二、三十歩離れると、もう敵方からは影が見えない。
例の正光院の墓地まで駈け戻ると、石塔の間に隠してあった風呂敷包みを解いた。歳三の着物は、どろと返り血で、革のようになっている。
「総司、着替えるんだ」
「私?」
沖田はちょっと自分の着物を見て、
「いいですよ。泥がくっついているけれど、こんなの、しこし乾けば払い落せます」
「・・・・」
歳三は、振り返って沖田のなりをせいもとからすそまでめるように見たが、だんだんいた口がふさがらなくなった。この男はどんな斬り方をするのか、返り血もあびていない。
「おめい・・・」
小面こづら憎くなった。
(こいつ、鬼の申し子か)
歳三は佐藤家から借りた木綿の粗末な紋服に着替え、野袴のばかまをつけ、手甲脚絆きゃはんの紐を一筋ずつ結び終わると、
「あれァ、何刻なんどきだ」
遠くの鐘の音に耳をすましている。
よっつ(夜十時)でしょう」
「総司」
歳三は、もう歩きだしている。月が脂光あかびかりのした両肩にあたっていた。
「江戸へ帰れ」
「土方さんは?」
「帰る」
歳三の足は早い。沖田は追いすがるように、
「一緒に帰りましょう」
「ばかめ。こういうことのあとだ。二人雁首がんくびそろえて本街道をあるけるか」
「土方さん」
沖田は、くすくす笑った。
あとはいわない。云えば、この男のくせで歳三は本気になってごまかしてしまう。
(女の所だな)
沖田は、女の味を知らない。どういうわけか、そういうことには生まれつき淡いほいうらしく、道場の他の連中が岡場所の女に夢中になったりするのをふしぎに思っている。
が、今の歳三の気持は、なんとなくわかるような気がしたから、
「では、ここで」
と言った。
沖田は、聞き分けのいい坊やのような微笑を残して、真暗な桑畑の中へ身を入れた。用心して本街道へは出ず多摩川づたいに矢野口まで出、国領で本街道に戻るつもりである。その頃には夜も明けるだろう。
歳三は、そのまま本街道へ出、府中の宿場に入った。
町は、すでにがない。
月は、こう隠れている。
宿場の軒々を手でさぐるようにして歩きながら六社明神の森の中に入った。
灯籠とうろうに、点々と灯が入っている。
やがて巫女みこ長屋を探り当てると、鈴振り巫女の小桜の家の戸を、忍びやかに叩いた。
叩く法がある。きめてある。
小桜はすぐ歳三と察したらしく、さんをはずして中へ入れた。
「どうしたの」
歳三の手をとろうとしたが、
「まあ、くさい」
手をはなした。血の匂いがみ込んでいるのかも知れない。
膩薬あぶらぐすりはあるか」
怪我けが?」
「それに焼酎しょうちゅうも」
もろはだぬぎになった。妙な見栄があって沖田には言わなかったが、右肩の付け根に一ヵ所、左の二の腕に一ヵ所、白い脂肪がみえるほどのを負っている。
「犬にまれた」
「犬がこんな歯かしら」
小桜は手当の用意をするために立ち上がった。小腰を振るようにして奥へ入って行くのを見ると、歳三は、
「いい、ここへ来い」
鋭く言った。我慢しきれなくなっている。分倍橋での血の騒ぎが、まだおさまっていない。
(喧嘩けんかと女、こいつは一つものだな)
血の匂いがする、どちらも。そう思った。
歳三は、女をつかに寄せるようにして、ひざの上に倒した。
その頃、沖田は、多摩川の南岸を、覚えているだけの童唄わらべうたをうたいながら東へ向かって歩いていた。
2023/07/14
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