~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
江戸道場 Part-01
柳町の坂を登り切ったところ、そこに近藤の江戸道場がある。
このあたりは、緑が多い。
ずっと向うには水戸殿の屋敷(今の後楽園)の森が見え、まわりには小旗本の屋敷が押しかたまって、羽織後は背後は伝通院の広大な境内が広がっている。
町内に、法具屋、花屋など陰気臭い商売が多いのは伝通院と隣接しているからだが、町なか・・のわりには小鳥も多い。
とくに夕刻、道場の裏あたりはからすき声がやかましく、このため口のわるい近所の町人は、
烏道場
と、蔭口をたたいている。
歳三が多摩方面から戻って来たのは翌々日の夕刻のことで、名物の烏が、妙に啼き騒いでいた。
(いやな声を出しやがる)
こんな殺伐な男でも物の好悪こうおがあるらしく、烏だけは好きではない。
すぐ道場の裏にまわって、井戸端で足を洗っていると、沖田総司がやって来て、
「ばかにごゆっくりだったですねえ」
と、例の調子でからかった。
「・・・・」
歳三は、うつむいて足を洗っている。沖田はその顔を覗き込むようにして、
「近藤先生は、ご苦労ご苦労、と褒めて下さいましたよ」
「なんだと?」
歳三は、白い眼を向けた。
「分倍橋の一件、近藤さんにったのか」
「云いやしませんよ、まさか」
「じゃ、なにがご苦労だ」
「剣術教授が、さ」
「何を云ってやがる」
この若者には、かなわない。
「ところで」
沖田は、なおも覗き込んで、
「大変なことが持ちあがったんですよ。御帰府早々びっくりさせちゃ悪いが、こいつだけは耳に入れておかなくちゃ、いかに才物の土方先生でも、その場にのぞんで、お狼狽うろたえになります」
「なんだ」
歳三は、顔を洗いはじめた。沖田はそのくびすじをちょっと見て、
「ひどい旅塵ほこりだ」
「なんだ、お前、大変というのは」
「まず、顔をお洗いなさいよ」
「云え」
ざぶっ、と顔をおけけた。
「実はほんのさっき、さる流儀の田舎剣客が一手御教授お願いつかまつる、とやって来たんですがね」
「なんだ、他流試合か」
めずらしくもない。
近頃の流行だ。
腕に自信のある連中が、江戸の二流、三流どころの小道場を狙ってやって来ては、いくらかの草鞋銭をせしめてゆくのである。
天然理心流近藤道場では、そういう場合は師範代の土方、沖田が立ち合うことになっていた。
強弱の順でいえば、この道場は妙なことに若先生の近藤がわりあい不器用で、沖田総司が最も強く、土方歳三、近藤勇、という順になる(むろん、これは竹刀しないのばあいで、真剣を使えば、この順がどうなるか、やってみなければわからない)。
竹刀の場合で、
と言ったが、実をいうと天然理心流というのは野暮ったい喧嘩剣法で、近藤などは、一つ覚えのように、
「一にも気組きぐみ、二にも気組。気組で押してゆけば、真剣、木刀なら必ず当流は勝つ」
と言っていた。
が、道場の試合は弱い。
2023/07/14
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