~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
江戸道場 Part-02
剣術の教授法は、この幕末、未曾有みぞうの進歩をとげた。
教育者としては、古い時代の塚原卜伝ぼくでん、伊藤一刀斎いっとうさい、宮本武蔵などは、幕末の大道場の経営者千葉周作、斎藤弥九郎、桃井春蔵ももいしゅんぞうあたりと比べれば、問題にならぬほど素朴そぼく単純である。
ことに千葉周作などは、きわめてすぐれた分析的な頭脳を持ち、今日生きていても、そのまま、教育大学の学長がつとまるはずの男で、古流の剣術にありがちな神秘的表現をいっさいやめ、力学的な合理性の面から諸流儀を検討して、不要のものを取りけ、教えるための言葉も、誇大不可思議な用語をやめ、たれでもわかる論理的な言葉を使った。
このため、北辰一刀流の神田お玉ヶ池、桶町の両道場を合わせれば、数千の剣術書生が、その門に蝟集いしゅうしている。(千葉の玄武館は、他のじゅくで三年かかる業はここでは一年にして達し、五年の術は三年にして功成る、という評判があった)
が、天然理心流はちがう。
これは、近藤の好きな、
「気組」
である。だから、めん籠手こてをつけての道場での竹刀試合は、どうしても当世流儀に劣る。
自然、
他流試合は苦手で、すこし強そうなのがやって来ると、あわてて他流道場に使いを走らせ、代人を借りて来る。
あらかじめ、そういう場合の用意に、神道無念流の斎藤弥九郎の道場と黙契してあって、そこから人が来た。これは当世流儀で、江戸三大道場の一つと言われるほどだから、多士済々たしせいせいである。
この道場は最初飯田町にあって、人を借りるのにえらく都合がよかったが、その後、火災に遇ったために遠い三番町に移った。
だから、いざ、というときには近藤道場から小者が走り出て十数丁けどおしで三番行へ走り込み、剣士を駕籠かごで迎えて来ることになっている。むろん、謝礼は出す。
「三番町へ」
と、歳三は顔をあげて、
「迎えにやったのかえ?」
近藤せんせいが」
と、沖田が親指を立て、
「そうしろ、土方や沖田では無理らしい、とおっしゃるもんですからね、走らせましたよ。もっとも試合は、あすの昼前の四ツですから、まだゆっくりしたものです」
剣客そいつは、それまでこの近所に泊まっているのか」
「宿所は隠していますがね、いまごろはこの近所のどこかで、おなじ烏の声を聞きながら酒でも飲んでいるはずです」
「だれだ、それは」
「驚いちゃいけませんよ」
沖田は、くすくす笑って、
「流儀は甲源一刀流、道場は、南多摩八王子の比留間道場です」
と言った。
歳三は、顔を洗う手をとめた。先夜、府中宿のはずれの分倍橋で大喧嘩したばかりの相手ではないか。
「江戸まで乗り込んで来やがったのか」
「ええ」
「誰だ、名は」
「七里研之助。──」
と言ってから、沖田は飛び退いた。歳三が、
── 馬鹿野郎。
と言いざま、桶の水をぶっかけったからである。
「なぜ、今まで黙っていた」
「黙ってやしませんよ。土方さんの戻りの遅いのがいけないんだ。私はちゃんと、こうしてお帰りを待ちかねて注進におよんでいるんですよ」
「よし、よし」
歳三は、ほかのことを考えている。
「総司、たしかだな、近藤さんは、われわれが分倍橋で七里あいつりあったこと、夢にも知ってはいまいな」
「立派なもんですよ、先生は」
「なにが立派だ」
「そんな小事はご存じない。土方さんなんかと違って、やはり大物です」
「なにを云いやがる」
歳三は、ちょっと考えて、
「七里のほうも、口をぬぐって知らぬ顔で、いるのか」
すねに傷、はお互いですからね、七里は云やしません。それよりも、七里にすれば道場での勝負で堂々と勝ちを制し、それを多摩方面で云い触らして、天然理心流の声望を一挙に下げようというはらでしょう」
「おれは、立ちあわないよ」
竹刀で、公式にやるとなると、歳三は絶対に勝ちを取る、という自信がない。七里がこわい、というのではなく、天然理心流が竹刀試合にむかない、といったほういがいいだろう。
「そのかわり、分倍橋のつぢきなら、もう一度やってもいい」
「私はごめんこうむりますよ」
沖田は、笑いながら行ってしまった。
2023/07/15
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