~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
江戸道場 Part-04
(男は、やはり、背景と門地だ)
そんなことを思いながら、道場の寝所に引き取ると、沖田総司が薄暗い行燈あんどんのかげで下を向いていた。みると、下着を裏返して、のみを取っている。
「やめろ、総司」
腹立たしくなった。蚤ぐらいは歳三も取るが、この場合、沖田の姿勢がいかにもこの三流道場にふさわしすぎて、やりきれない。
「どうしたんです」
見上げた沖田の顔が、びっくるするほど明るい。歳三は、その明るさに救われたような気になって、
「明日、ここへ小遣いかせぎに来る男は、桂小五郎という男だそうだ。聞いたことがあるか」
「知っていますよ」
沖田は、やはり物識ものしりだった。
「永倉新八(近藤道場の食客。桂と同流別門の神道無念流の免許皆伝)さんから聞いたことがあります。敏捷びんしょう鬼神のごとしという剣で、かつて桃井道場で大試合おおよせがあったとき、諸流の剣客をほとんどぎ倒して、最後に北辰一刀流桶町千葉の塾頭坂本竜馬りょうまに突きを入れられて退場したが、おそらく疲れていたのだ、という話です。藩は、長州ですよ」
「長州か」
べつに、その藩名を聞いても、歳三にはなんの感興もおこらない。長州藩自体まだ平凡な藩で、数年後に政情を混乱させた急進的な尊攘そんじょう運動は、まだ起こっていないのである。第一、歳三自身が、新選組副長ではない。
「長州では、どんな身分だ」
「桂家はもともと百五十石の家柄いえがらだったそうですが、相続の都合で九十石になっているらしい。が、あの藩ではれっきとした上士じょうしです。学問の方でも非常な俊才で、藩公の覚えもめでたい、ということです。まあ、なにもかもめぐまれた俊髦しゅんぼう、という人物でしょう」
「ふむ」
歳三は気に入らない。
普通の人間なら、見たこともない相手の噂で、
── 師にも、主君にも、門地にも、才能にも、すべての点でめぐまれている。
と聞けば、・・・なるほどわれわれとはちがう、と苦笑すればそれで仕舞いのところだが、歳三の心は、多少屈折している。恵まれすぎている、というそれ自体が気に入らなかった。
「総司、いやにお前、ほめるようだが」
「ほめてやしませんよ。ただ永倉さんから聞いただけのことを言っているだけです」
「いや、ほめている。が、総司、お前だって浪人の子に生まれずに、大藩の上士の家に生まれていれば、筋目どおりの教育を受け、筋目どおりの立派な人間になって、主君のおぼえもめでたく、同輩からは立てられるようになっている。人間、生まれが違えば、光り方も違って来るものだ」
「・・・・」
「そうだろう」
むろん、歳三は、総司よりもむしろ、自分にひきかえて云っている。
「そうかなあ」
沖田には、そんなことは、からっきり興味がなさそうだった。
その翌朝。──
定刻、七里研之助ややって来た。
相変わらず顔の贅肉ぜいにくすすよごれた感じだが、眼だけは凄味すごみがさすほどに鋭い。
その眼が、にこにこ笑っている。その眼のまま道場の玄関に立った。
単身である。門人も連れない。
むしろ近藤道場の取次の門人の方が狼狽ろうばいしたほどの放胆さだった。
「近藤先生にお取次ぎながいた。昨日御意ぎょいを得ました八王子の七里研之助でござる」
「どうぞ」
すでに、近藤は道場で待っている。
その横に、塾頭の土方歳三、免許皆伝者の起こ田総司、目録の井上源三郎、客分の原田左之助、同永倉新八などが居並んでいる。
「これは」
七里研之助は、薄汚い木綿の紋服に木綿縞地しまじの馬乗りばかまをはいて、いかにも武州上州の田舎剣客といったいでたちである。
一通りの挨拶が終わってから、七里は微笑を歳三の方角へまわして、
「これは土方先生、先日は妙な所でお会いしましたな」
「その節は。──」
歳三は、こわい顔で、軽く一礼した。
「ああ、その節は、お互い、ご無礼なことがありました。おお、そこにおられるのは、沖田先生でござるな。おなつかかしいことだ」
人を食った男である。
やがて、ひとり、取次にも案内されずに(むろんそういう扱いを避けたのだろう、だが)おかにも当道場の門人のはし、という体作ていづくりで、むこうの入口から入って来た男があった。
歳三は、その男をはじめて見た。
桂小五郎である。
男は、ゆったりと末席にすわった。
2023/07/16
Next