~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
八王子討入り Part-01
──としの鬼あし。
といえば、日野宿かいわいで歳三の少年時代を知る者なら、誰でも知っている。
この男の足は鬼のようにはやい。
沖田総司などは、
── 土方さんは化物ですね、韋駄天いだてんの。
と、からかったことがある。歳三は、(なにを云いやがる)とそのときはむっと黙っていたが、こういうことでも根に持つ男で、だいぶ日が経ってからだしぬけに、
「沖田、知らねえのか。足の達者な者は智慧ちえも達者、というほどのものだ」
そんな脚である。歩きだすとむっつりと黙り、眼ばかりぎょろぎょろ光らせ、独特の不愛想づらで、とっとと街道を足でむようにして歩いて行く。
その夕、まだ七里研之助が近藤勇と話をしている刻限、歳三は小石川柳町の道場を影のようにぬけ出た。
甲州街道十三里を駈けとおして八王子の浅川橋を渡った時は、まだ夜が明けていない。たしかに鬼のような健脚である。
(七里はまだ舞い戻っちゃいねえだろう)
宿場に入ると、早立ちの旅人のための茶店が、すでに雨戸を繰っている。
歳三は、浅川橋を渡ったところにある辻堂つじどうの裏で衣裳いしょうを変え、例によって「石田散薬」の薬売りに化けた。
紺手拭こんてぬぐいで顔をつつんでいるが、往来はまだ暗い。刀はこも・・でくるんで横山宿の旅籠はたご江戸屋に入った。
「おれだよ」
珍しいこと、と、飯盛たちがさわうでくれた。古い馴染みのやど・・である。むろんこの旅館では歳三を、薬屋としか思っていない。
ここで一刻にじかんばかりぐっすり眠り、あとはぜんを持って来させ、めしに汁をぶちかけて存分に食った。
(これでいい)
往来へ出た。朝霧が、冷たい。
旅人が、霧の中で動いている。ここから千人町の比留間道場まで、二キロほどのところだ。が、歳三はすぐには行かない。事をおこすと火の出るほどに無茶をやる男だが、それまでは不必要なほど慎重に手配りをする。
まず例の専修坊ぜんじゅうぼうへ立ち寄った。道場の様子を知るためである。寺の境内の太鼓楼のそばにある寺男の小屋へ入ろうとすると、方丈の縁で日向ひなたぼっこをしていた老院主ろういんじゅがめざとくみつけて、
「薬屋か」
手まねぎしてくれた。運がいい。歳三は、院主へ笑顔を作ってみせた。
「ちかごろ、どうしている」
院主は歳三を縁側にすわらせ、手ずから煎茶せんちゃを入れてくれた。
「相変わらずでございます」
「結構だな」
院主は、菜の漬物つけものを一つまみ、歳三の掌に乗せてくれる。
「それはそうと、比留間道場へらしたおひいさまは、お達者でございますか」
せん・・か。ありがとう。息災だ」
と、院主は相変わらず話好きだった。
「比留間道場の方は、だいぶごたごたしているようだよ」
「ほう」
歳三は、愛嬌あいきょうよく小首をかしげる。
「どういう次第で」
「なあに、博徒ばくと縄張なわばり争いと同じようなものさ。昔はこの向うの浅川の流れを境にして、東は天然理心流、西は甲源一刀流、と決まっていたものだが、世の中が攘夷じょうい騒ぎなどで荒っぽくなってきたせいか、互いに力で縄張りをりあいしようとする。元亀げんき天正てんしょうの戦国の世に戻ったようなもんだね」
老僧は、娘のおせん・・・に似た一重ひとえまぶたの眼を細めながら、
「なんでも婿むこどのの話では日野宿石田在のうまれの男で天然理心流の塾頭じゅくとうをしているナントカという男が、こいつが手に負えない悪党ばらがき で、比留間の方でもこれを分倍河原におびき出してたたる計略だったそうだが、逆にこっちに何人かの手負ておいこしらえたがって、風を喰らって江戸へ逃げたそうだよ」
「おもしろい男でござんすねえ」
「何が面白いもんか。どうせつらを見てもいやな奴だろう」
「へえ」
歳三は、ゆっくりと茶をんだ。
「どうだ、もう一服」
「へえ、ありがとうございます。── しかし、甲州街道のうわさでは、比留間道場の塾頭の七里研之助という男も相当な悪党ばらがきで、評判が悪うございますよ」
「そうらしい」
老僧は、うなずいて、
「なんでも、あの七里という男は、もともと八王子剣客でも甲源一刀流でもなくて、上州から流れて来たやとい塾頭だそうだ。婿どのの比留間半造も、内心手を焼いているらしいが、あの男が来てから、百姓や博徒の門弟がぐっと増えているから、婿どのも目をつぶっているのだろう。しかし腕はめっぽう立つそうだよ」
「ほほう」
「いまに、八王子の甲源一刀流が三多摩の雑流を打ち砕いて西武せいぶ一帯にをなすと豪語しているという。どうだ、もう一服」
「へい」
歳三は、、ほかのことを考えていた。
「茶だよ」
「足りましてございます」
辞儀をして立ち上がり、そのまま山門を出て街道筋にもどった。
2023/07/19
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