霧は、晴れている。歳三は、宿場の
軒端
をつたいながら、西へ歩いた。
八王子宿は、甲州街道きっての大宿場で、西に向かって長く、
小宿
こじゅく
にわけると十五宿にわかれる。その小宿を横山、八日市、八幡、八木、と歩き、武家屋敷のならぶ千人町の角まで来た時には、すでに
陽
ひ
も高くなっていた。
(さて)
歳三は、ためらいもしない。比留間道場の門前をゆうゆうと通って、そのままの足で裏木戸へまわった。それだけではない。放胆にも、ぬっと邸内に入ってしまったのである。真昼の押し込みに似ている。
幸い、人影はない。
(不用心なことだ)
歳三は、両肩をすぼめ、道場と屋敷の間にある狭い通り抜けをゆっくり通った。
勝ってはわかる、このままの通り抜ければもう一つ木戸があり、それをあければ裏面の桑畑がひろがっているだろう。
そこを通り抜けようとした時、背後でがらりと戸があいた。
(・・・・)
やっと、足をとめた。そのくせ、背後を振り向こうとはしない。もし咎められたら、
── へえ、薬屋でございます。
という言葉も用意していた。もうこの道場では、そんな偽装も通らなくなっているのだが、歳三はぬけぬけとやってのける
糞度胸
くそどきょう
も用意している。
「・・・・」
歳三は、なおも背後を振り向かない。ところが奇妙なことに、背後の者も、だまりこくったまま、声もかけないのだ。ただ、はげしい息づかいだけは聞こえて来た。女である。
(
おせん
・・・
だな)
都合がいい。会おうとした者にいきなり会えるなどとは、やはり体を知り合った男女には、眼に見えぬ糸のかよいあっているもいのなのか。しかし歳三は、
(おれだよ)
とも言わず、歩きだした。
その薬屋姿の背後に、
おせん
・・・
は、
唇
くちびる
から色を
喪
うしな
って、ふるえながら立っていた。もはや色恋
沙汰
ざた
という感情ではない。恐怖といっていい。この男は、なんのために自分の婚家に、こうもしばしばやって来るのだろう。
むろん、
おせん
・・・
は、歳三が、じつは薬屋ではなく天然理心流の塾頭であることも知っているし、六車斬りから分倍河原の喧嘩までのいきさつをいっさい知っている。
それだけに、おそろしかった。
木戸の手前で、この薬屋はゆうゆうと右へ折れた。ここに
納屋
なや
がある。よく勝手を知っている。納屋は、
味噌蔵
みそぐら
と
什器蔵
じゅうきぐら
に囲まれていて、ここへはめったに家人も門人も来ないことも、この男は、よく
馴
な
れた盗賊のように知っていた。
もう一つ、薬屋は、
おせん
・・・
(かならずついてくる。──)
事実、
おせん
・・・
歳三は、手をのばして
おせん
・・・
「迷惑か」
耳もとでささやいた。迷惑は当然である。歳三は
囁
ささや
きながら左手で
おせん
・・・
おせん
・・・
どくだみ
・・・・
の茂みを踏み、その葉の青い汁が、足の指を
濡
ぬ
らしている。
温和
おとな
しい女だ。
身をよじって
抗
さから
いはしなかったが、それでもこの女にしては精一杯の努力で、
「もう、来て下さいますな」
と、小さな声で言った。その時陽がにわかに
翳
かげ
った。風が土蔵の西棟におこって粟の木がさわぎはじめている。
「あんたも悪い男に縁をもったことだ」
歳三の声が、乾いている。
「
厭
いや
」
「しばらく、動いてくれるな」
歳三の指に力が入った。
おせん
・・・
おせん
・・・
「あの、こんな、真昼に。──」
「夜ならば、いいと申されるのか」
「もう、おそろしゅうございます。ここへは来てくださいますな」
云いながらも、やっと立っている
おせん
・・・
どくだみ
・・・・
を夢中で踏みにじっている。
「それは、
堪忍
かんにん
。──」
「さらば、あすの夜
十時
よっつ
、桑畑に面した裏木戸を開けておいてくれ。忍んで来る。最後の
想
おも
いを遂げれば、もはや二度と来ぬ。このこと、承知してくれような」
「はい」
かすかにうなずいた。
(これでよい)
歳三は、おせんへの用は済んだ。あとは、その開いた木戸から、沖田総司、原田左之助、永倉新八らを導き入れれば、それで済むことである。
(この
悪党
ばらがき
め)
とは、歳三は
自嘲
じちょう
しない。いまの場合歳三には
喧嘩
けんか
に勝つことだけが重要なのである。
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