~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
八王子討入り Part-03
その翌夕、歳三が旅籠江戸屋で待っていると、予定通り沖田らがやって来た。
けねて打合せ通り、旅籠の者にも怪しまれないように、歳三とはまったく別の客として彼らは階下に泊まっている。
めしが済んでから、沖田総司は一人で歳三の部屋へやって来た。
「・・・・」
歳三はうつむいて、ひざの上でなにか細工ごとをしている。よく見ると、熱燗あつかんの入った五合徳利に散薬を入れていた。
「なんです、それは」
「打身骨折の妙薬だ。酒に入れてあらかじめ飲んでおくと、ききめが早い」
「それが、土方家伝来の妙薬石田散薬というやつですか」
「おての商売ものだよ」
相変わらず、不愛想な顔だ。
原料は、かつて書いたように、土方家のすぐそばに流れている多摩川の支流浅川の河原から採る。今日でもなお河原いっぱいに繁茂しているトゲのついた水草だが、これをとって乾燥させ、農閑期に黒焼きにして薬研やげんでおろし、散薬にする。土方家では、この草の採集期(毎年土用の丑の日)や製剤のシーズンには村中の人数を集めてやるのだが、歳三は十二、三歳の時には、この人数の狩りあつめから、人くばり、指揮、いっさいをやった。歳三が人動かしがうまいのは、こういうところからも来ている。
「これは効くぞ」
歳三は、うれしそうな顔をした。
「そうかしら、しかし土方さん、相手は骨折ですぜ。んで効くもんですかねえ」
「薬は気で服む。性根しょうねをすえて、効くものと思えば、必ず効く」
「すごい薬だなあ」
「これを階下したへ持って行って、みんなに五、六杯ずつ飲ませてやれ」
「みな、感涙します」
沖田は、ペロリと舌を出した。
武器えものは木刀だ。相手がたとえ真剣で来ても木刀で叩き伏せる。分倍河原のときは野っ原だったからいいが、こんどはそうはいかねえ。八王子宿だからな」
「寝込みを襲うわけですね」
「ちがう」
歳三は、言った。
「ちゃんと試合をする。ただ普通の試合と違うのは、相手を叩き起こしてむりやり木刀を持たせてやるだけのことだ」
「なるほど」
奇想である。内実はどうであれ、形はあくまでも試合の姿はとっている。勝てば評判が立つ。剣の道は、評判を得た側と、おとした側とでは、なにかにつけ天地の差がある。
「七里研之助が我々の道場に来て云い切った以上、試合はすでに始まっている、と考えていい。油断は、した方が悪い」
「討入りは、どこから?」
「おれがちゃんと考えてある。その場で下知げちに従えばいい」
まだ、十時よっつまで時間がある。歳三は沖田を追っ払って、横になった。
うとうとしていると、歳三とは古い顔馴染かおなじみの年増の飯盛女おじゃれが上って来て、
「どう?」
と言った。一緒に寝ないか、というのだ。
「いいよ」
「あたしじゃ、不足かい」
「おれァ、白粉おしろいくせえのが嫌いなんだ」
「変わってるねぇ。じゃ、白粉おとして上って来るから、おとなしく寝床にくるまって待っていな。いっとくけど、あたしゃ稼業かぎょうで言ってるんじゃないんだよ。いい男が独り寝しているなんなんざ、うすぎたねえざまだから、功徳くどくでいってるんだよ」
「かたじけねえ。だが、おれは今夜、夜発よだちをして甲州へ出かけなきゃならねえんでね」
「おや、あんたも夜発ちかい。およしよ。階下したのお侍衆も夜発ちだと言っていたから」
「侍は侍、おれはおれだ」
「だってさ」
飯盛女は覗き込んで、
「あの連中、なんだかおかしいよ。比留間道場と喧嘩するんじゃないかい」
(えっ)
が、歳三は驚きを消して、ゆっくりと起きあがった。話が、れている。
「どこで聞いた」
かんさ」
女は、くすくす笑ってじらした。歳三は、そっぽを向いた。しわ・・に白粉がめり込んだ女の白首がやりきれない。飯盛女はしているが、五十二はなっているだろう。
「あたしの勘だよ、お前さん」
と、女は得意そうに言った。
「・・・・」
女好きのくせに、ときどき、女というものがぞっとするほど気味悪くなることがある。というより、本心、女が憎くて嫌いなのかもしてない。歳三が、女に打ち込んだことがないのは、女がこわくて、いつも逃げ腰でいるせいかもしれない
「ねえ、聞きたくないかい」
女は、骨ばった指で、歳三のひざをつついた。
「おもしろいよ。あたしだけしか知っていない芝居が、いまにこの往来でおっぱじまるから」
「どういうわけだ」
「こうだよ」
さっき、女が階下したの手洗いで用を足していると、往来に、侍が居た。おかしい、と思い軒端へ出てみると、武士が何人も居る。用もないのにぶらぶらと往来を歩いたり、むかいの旅館の天水桶てんすいおけかげに立っていたりして、様子が尋常ではない。
(捕物かな)
と思ったが、捕方ではない。どの顔も、比留間道場に居る若い連中である。
「比留間道場?」
歳三は、息を呑んだ。
れている。
すでに相手は、せんを打って、この江戸屋を見張っているらしい。おそらく、宿場外れの暗がりには十分の人数を用意しているだろう。
(たれが、露らしやがった)
歳三の顔から、血がひいた。おせん・・・
「お前さん」
女は、けろけろと笑って、指で歳三を突いた。
「ずいぶん、女をだまして来たね」
「なに?」
歳三は、ぎょっとした。胸中の思案と、あまりにぴったりしているからである。が、女はべつに底意があっての戯事ざれごとではなく歳三の首に腕をまきつけてきて、
「いい男だからさ」
と言った。
「どけ」
歳三は立ちあがっている。階下には、沖田総司、原田左之助、永倉新八、藤堂平助がいる。無事これだけの人数が八王子を脱出出来るか、歳三のも成算がない。
2023/07/21
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