~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
スタスタ坊守 Part-01
一同、旅籠はたごの階下で酒を飲んでいる。
土方歳三、彼らの部屋に入ってから、濁酒どぶのにおいに、むッと顔をしかめた。原田左之助のごときは横になり、太鼓腹の上に五合徳利を乗せ、鎌首かまくびをもたげては、猪口ちょこをすすっている。
「原田君、それが武士の容儀か、起きたまえ」
冷たい眼で言った。歳三にとって、男の酔態ほど不快なものはない。ちなみに、近藤も土方も酒をたしなまなかったが、おなじ下戸げこでも近藤は集積が好きで酒徒にも理解がある。が、土方は、このはらわたの腐るようなにおいが、我慢ならなかった。多少嗜むようになったのは京にのぼってからで、はじめて王城の地の美酒を飲んだ時、酒とはこういう液体だったのか、とそれまでこの液体にもっていた憎悪ぞうおを多少解いたほどである。
「ご用ですか」
と原田は言った。
「諸君に、話がある」
と歳三は、自分達の企図がすでに比留間道場に知られてしまっていることを明かし、すでにこの旅籠のまわりや、宿場の要所々々は甲源一刀流の人数で固められている、と手短に説明した。
「では、どうするんです」
「逃げるのさ」
「私は。いやだ」
「君は酔っている。だまりたまえ」
その頃、八王子宿の千人町にある甲源一刀流比留間道場では、近在の門人のほとんどをかりあつめてしまっていた。
百姓、博徒、八王子千人同心、といったような雑多な顔ぶれで、人数は三、四十人も居たろう。それぞれ、木刀、タンポやりなどを持ち、鎖の着込みをつけている男もある。もし代官所から故障が出た場合は、天然理心流との野試合である、という弁明も用意していた。むろん、師範代七里研之助の智恵ちえである。
当の道場主比留間半造はおだやかな男だから、指揮は一切、七里まかせだ。
内儀のおせん・・・は、風邪と称して寝込んでしまっていた。生きた心地がしなかった。
彼女は、「薬屋」を売った。智恵ぶかく告げ口したつもりだから、夫も七里も、彼女がまさかその薬屋と、娘当時にいきさつ・・・・があったとは、気づいていない。女の狡智こうちは、身を守るために天から授かったものだ。が、この智恵ぶかい筋書きがうまくいったにしても、戯作げさくの書き手である彼女は、いまから舞台で進行する芝居そのものは見たくない。
七里研之助は、人数を二手に分けた。相手がいずれに押しかけて来るにしても、これを機会に、連中・・の足腰を一生使いものにならぬほどにたたき折ってしまうつもりでいる。
その点、七里は似ていた。病的な喧嘩好きは歳三とそっくりであった。七里は剣術道具をつけ、人数の手配りなどをしている時は、眼の色まで変わっている。
七里は、一手を千人町の道場に詰めさせて道場主比留間半造を守らせた。これが主力で二十人。
他の一手は、
明神の森
に、埋伏まいふくさせている。
これで、天然理心流の五人は、退くも進むも、袋のねずみになる。
2023/07/22
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