~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
スタスタ坊守 Part-02
── 何度も言うが、宿場の往来で闘争に及んではならぬ。上州ではそういうことがあって、一郷剣術停止ちょうじの御沙汰さたを食いかけたことがある。あくまでも相手を、道場か、明神の森に引きずり込んでる。
と、七里は門弟衆に注意をした。
「── まさか」
と、歳三は、旅籠江戸屋の階下奥の間で言った。
「比留間の連中が、この殷賑いんしんの八王子宿の往来では事は起すまい。おそらく、我々が宿場はずれにけ出した時が、あの連中のつけめ・・・だろう。つまり、危ないのは浅川の橋を渡ってからだ。渡ってほどなく左手に雑木林がある。土地では明神の森と呼んでいる。おれが七里研之助なら、ここへ人数を埋めておきたいところだ。ここが危ない」
「それで?」
と、原田左之助は言った。
「我々は、どうするんです」
「いま、云う」
歳三は、ぎょろりと一座を見まわして、
「沖田君」
と言った。
「君は藤堂(平助)君、永倉(新八)君と三人で、先発してもらう。この三人は、闇組くらやみぐみになる。提灯ちょうちんはつけない」
「ああ、祭の喧嘩・・・・だな」
と、沖田総司は、カンがいい。歳三の生まれた日野宿郊外はずれには、昔から喧嘩の戦法があるのだ。
この三多摩地方は、家康の関東入府以来幕府領として、江戸の大人口を支える農業地帯にさせられてしまったが、それ以前は、このあたりの農民は合戦といえば具足ぐそくを着て、源平以来、精強をほこった「坂東ばんどう武者」のすご味をみせたものである。
歳三の土方家も、いまでこそ百姓の親玉になりさがっているが、遠く源平の頃は土方次郎ひじかたのじろうなどという源氏武者も出(東鑑あずまかがみ)、戦国の頃は多摩十騎衆の一軒(新編風土記)、土方越後、同善四郎、同平左衛門、同弥八郎などは、小田原北条氏の屯田とんでん司令官(被官ひかん)として、勇を近隣にふるったものである。
この三多摩一帯は、そういう源平武者、戦国武者の末孫だから、気性も荒く、百姓とは言え、先祖の喧嘩のやり方や、小競合こぜりあいの戦法を伝えて来ている。土方歳三が指導した後の新選組や、会津戦争、函館戦争のやり方は、三多摩の土俗戦法から出たものである。
沖田総司が、
── ああ、祭りの喧嘩・・・・・、だな。
といった戦法も、その一つである。
「土方先生」
と原田左之助は不満そうに言った。
「私の名がないようですが」
「君は、おれと一緒さ。つまり、祭りの喧嘩・・・・・という戦法やりかたでは、君も私も、提灯組、ということになる」
「というと?」
「まあ、私の教える通りにやってみることだ。なかなかおつで、おもしろいぜ」
2023/07/23
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