~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
スタスタ坊守 Part-03
旅籠江戸屋のまわりを見張っている比留間道場の連中は、七人である。
これらの連中の任務は、たった一つしかない。
── 出たら、どの方角か、告げろ。
とだけ、七里研之助から命じられている。歳三らが千人町(道場)へ向うか、それとも街道を東へ走って江戸へ帰ってしまうか。
(どっちだろう)
と、彼らの誰もが、旅籠の植え込み、天水桶のかげ、向いの旅籠の土間、などから眼を光らせていたが、やがていぬノ刻の時鐘が鳴った後、風が立った。そのとき、一様に編笠あみがさをかぶった三人の武士が出て来た。
沖田、藤堂、永倉の三人である。これが歳三のいう闇組で、、提灯を持っていない。
── 出た。
と、見張りの連中は色めいた。
夜空はみごとに晴れ、星がひしめきあって輝いている。三人組の編笠は旅籠を出るなり江戸の方面に向かって歩きだした。が、すぐ武士たちの黒い影は街道の闇に紛れてしまった。
── 甲州街道を江戸だ。すぐ千人町へ走って七里どのにそういえ。
下知げちする者があって、使番つかいばんの者が軒づたいに走りかけた時、旅籠江戸屋から面妖おかしなものが出て来た。
大坊主である。
こいつが坊かずらをかぶっている、とまでは、暗くて見抜けなかったが、頭になわ鉢巻はちまきを締め、腰に注連縄しめなわを巻きつけ、背中からムシロを斜めにかつぎ、腰に大きな馬乗り提灯をさしこんでいる。
「さあさ、みなさん、善男善女」
と、歌い、かつ踊りながら歩きはじめた。
これが、かつて伊予(愛媛県)松山藩のさる上士の中間ちゅうげん部屋でごろごろしていたころの原田左之助が、当時覚えた酒席の芸である。
今でも酔っぱらうとこの隠し藝を出すのだが、口の悪い連中の中では、
(原田君、あれは中間部屋で覚えた芸だというが、案外、あれが本業だったのではない)
と、真顔でいう者もある。それほど、この左之助の芸は堂に入っている。
の中に、単純な楽器が入っていて、これがカチカチ鳴る。楽器と言っても竹札たけふだ二枚で、これを指ではさんでは離しながら、
「スタスタ、スタスタ、スタスタ坊主の来るときは、・・・」
と歌うのだ。
── なんだ、あれは。
── スタスタ坊主さ。
と、一人が言った。
昔は諸国にこういう乞食こじき坊主が歩いていたものだが、いつのほどかすたれていいた。が、近頃は、また街道筋にくようにして出てきている。これも攘夷じょういさわぎで、世間が不安になっている表れかもしれない。
「スタスタ、スタスタ、スタスタ坊主の来るときは、腰には七九しちく注連しめを張り、頭にシッカと輪をはめて、大日だいにち代僧だいそう代詣だいまいり、難行苦行のスタスタ坊主、スタスタ云うてぞ安らひぬ」
と、原田左之助は、踊りながら江戸の方角に向かって歩きはじめた。背中のムシロにはこの男自慢の肥前鍛冶ひぜんかじ藤原吉広二尺四寸がねむっている。
その背後から歳三が、これも無紋の馬乗り提灯を腰にさし、紺手拭こんてぬぐいほおかぶり、薬屋の装束で歩いた。
二人は、浅川の橋を渡った。
渡ると、八王子宿はおわる。あとは星空の下で、黒土の甲州街道が武蔵野の草と林の中を横切ってえんえんと東へつづくばかりである。
2023/07/23
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