~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
疫 病 神 Part-01
筆者は運命論者ではないが、人間の歴史というのは、じつに精妙な伏線で出来上がっている。
近藤勇も土方歳三も、歴史の子だ。しかも幕末史に異常な機能をはたすにいたったことについては、妙な伏線がある。
麻疹はしか虎列刺コレラである。
この二つの流行病が彼らを走らしめて京都で新選組を結成させるにいたった数奇さつきは、彼ら自身も気づいていない。
この年、文久二年。
正月ごろに長崎に入港した異国船があり。病人を残したほか全員が上陸した。
そのうちの数人が高熱で路上で倒れ、しきりとせきをし、やがて船に運ばれた。それがハシカであることがわかった。このころ、大西洋上のフェレール群島(デンマーク領)で猛烈なハシカが流行し、たちまち全ヨーロッパに蔓延したから、この船員が長崎で飛散させた病原体ビールスは、おそらくそういう経路をたどったものだろう。
長崎は、軒並みにこの病原体ビールスに襲われ、これが中国筋から近畿きんきにまで蔓延した。
たまたま、京大坂に旅行していた二人の江戸の僧がある。
この僧は、江戸は江戸でも、小石川柳町の近藤道場「試衛館」と背中あわせになっている伝通院の僧であった。
これが道中何事もなく江戸に戻ったが、伝通院の僧房でわらじをぬぐとともに発病し、たちまち山内さんないの僧俗の大半はこれで倒れた。
ハシカの病原体ビールスは、現代こんにちでこそ国内に常在し、風土病化しているが、鎖国時代の日本ではまれにシナ経由で襲って来る程度のもので、免疫めんえきになっている者は少ない。
ために、死ぬ者が多かった。
この伝通院の二人の僧が持って帰った「異国渡来」の風疹は、またたく間に小石川一円の老若男女を倒し、江戸中に蔓延しはじめた。これにコレラの流行が加わった。
── これも、幕府が、京の勅許を待たずにみだりに洋夷よういに港を開いたからだ。
と、攘夷論者たちはこの病原体におびえ、そういう説をなした。
江戸の人斎藤月岑げっしんが編んだ「武江ぶこう年表」の文久二年夏の項によれば、
日本橋上に、棺桶かんおけが渡るのが二百個以上の日もあった。
死後体じゅうが赤くなる者が多く、高熱のため狂を発し、水を飲もうとして川に走っておぼれ、井戸に投じて死ぬ者が多い。熱さましの犀角さいかくなどはとても効かない。七月になっていよいよ盛んで、命を失う者千人なりやを知らず。そのうえ、これにあわせてコロリ(コレラ)がはやった。(これも数年前の安政年間が日本最初の流行で、この文久二年夏が三度目。この伝染病も、開港による西洋人持ち込みの疫病である)
2023/07/24
Next