~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
疫 病 神 Part-02
「ひどいもんですよ」
と、町を出歩いては歳三に報告するのは、」沖田総司である。
沖田の報告では、江戸の町々はどの家も雨戸を締め切って、往来に人がなく、死の町のようになっている。
夏というのに両国橋に涼みに出かける者もなく、夜舗よみせも立たず、花柳街いろまちも、吉原、岡場所をとわず、遊女が罹患りかんしているために店を閉めて客をとらない。
第一に、湯屋、風呂屋ふろや髪結床かみゆいどこといった公衆の集まる場所には一切人が寄りつかず、このため、江戸の男女はあかだらけになり、地虫のように屋内で息をひそめている。
「江戸じゅうのやつらが、小石川界隈かいわいと云や地獄かと思っていますぜ」
「ここが風上かざかみだからな」
と、近藤が憂鬱ゆううつな顔をした。
流行の発祥地である小石川は一帯はとくに罹患者が多く、人が寄りつかない。近藤道場には門人がかいもく寄りつかなくなったのである。
「伝通院の坊主ぼうずめ」
近藤は、吐き捨てるように言った。まさか近藤は、この病原体が大西洋上のデンマーク領群島から地球を半周して、近藤道場の近所までやって来たとは思わない。恨むとすれば、一昨日、桜田門外で殺された大老井伊掃部頭直弼かもんのかみなおすけの開国政策を恨むべきであった。
「しかし、面妖みようだな」
と、近藤は腕組みしながら、
「当道場の連中はたれもかかっていない」
「近所じゃ、憎まれてますぜ。あそこの剣術使いどもが一人もかからねえというのは、よほど悪運の強い連中の集まりなんだろう。一人ぐらいは罹った方が可愛かわいらしくていい、なんて、松床まつどこのおやじが触れまわっているそいうです」
と沖田が言った。
「歳、そうだとよ」
近藤がおかしがった。
「お前、みんなの身代わりになって、すこしわずらってみたらどうだ」
「土方さんじゃ、だめです」
沖田がからかう。
「疫病神がしっぽをまいて逃げますよ。土方先生ご自身が、大疫病神でいらっしゃる
「なにをなにをいたはる」
「しかし歳」
近藤は、言った。近藤は養子とはいえ、この小道場の経営主である。こういう心配があった。
「このぶんでは、道場は立枯れだな。どうすればいい」
「待つしか手がありませんな。米櫃こめびつがからになるまで籠城ろうじょうするしか仕方がありませんな」
「籠城か」
それには、金も米も要る。
歳三はその工面くめんをするために日野宿の大名主佐藤彦五郎義兄のもとに何度も使いを走らせては、金穀きんこくだけでなく、味噌みそ、塩、薬まで取り寄せた。
悪疫の猖獗しょうけつは七月、八月とつづき、例年江戸中の人気を集める浅草田圃の長国寺で開かれるおおとり大明神の開帳も、ことしは付近の野良犬のらいぬがうろついている程度だったという。
流行は、九月になってもやまない。
十月になって、ようやく衰えた。
が、いったんさびれた道場というのはおかしなもので、門人が戻って来ない。
もっとも門人といっても、れきとした禄米ろくまい取の武士といえば、先代周斎の頃に奉行所与力某というのが居たというっきりで、現実ありようは、町人の若旦那わかだんな、旗本屋敷の中間部屋の連中、博徒ばくと、寺侍といった性根のない連中だから、稽古から遠ざかってしまうと、もうやる気がなくなるのである。
2023/07/26
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