~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
四条大橋 Part-03
「すぐ隊士を徴募しよう」
と、歳三は言った。
徴募の仕方は、「京都守護職御預おんあずかり」という権威をもって、京都、大坂の剣術道場を説きまわることであった。おそらく、ふうをのぞんでやって来ることだろう。
「近藤さん、これは大事なことだが、徴募の遊説ゆうぜいは、我々武州派の手でやることだな」
「どうしてだ?」
「芹沢一派にやらせると、その手を伝ってやって来る浪士はみな芹沢派になる」
「なるほど」
近藤は苦笑した。
歳三の処置は迅速だった。あくまでも、同宿の芹沢らには内密である。
その翌日から、沖田。藤堂、原田、斎藤、井上、永倉らを指揮して京大坂の道場をしらみつぶしに歩かせて、応募を勧誘させた。
もともと、京大坂は道場の少ない町だが、それでも三、四十はある。
資格は、目録以上の者で、剣がおもだが、柔術、槍術そうじゅつであってもかまわない。
── ぜひ。
と、即座に入隊を応諾する者もある。
小うるさい道場主になると、「せっかく御光来くださったのだから、ひと手、御教授ねがいたい」と、暗に新選組という耳なれぬ集団の実力を測ろうとする者もあった。
── のぞむところです。
と、沖田、斎藤、藤堂などという連中はむぞうさに竹刀しないを取って立ち合い、一度も敗れを取ったことがなかった。
大坂松屋町筋で、槍術、剣術の道場を営む谷兄弟のばあいなどは、兄の三十郎が、原田左之助の槍術の師匠だったこともあって、
──さあ。
と尊大ぶってなかなか応じない。弟子が幹部になっている浪士組など、たかが知れたものとみたのか、それとも、処遇のことで高望たかのぞみでもあったのか、煮えきらなかった。
沖田総司は利口者だから、こういう手合いには百の弁よりも試合を所望するにかぎると思い、
── 谷先生、ひと手、お教えねがいます。
といって立ち合い、やりで向って来るところを三度とも手もとにつけ入って、あざやかな面を取った。
というようなわけで、あらかた諸道場に話をつけおわったころ、芹沢が近藤に、
「ぼつぼつ、隊士の徴募にかからねばなりませんな」
と相談をもちかけた。
(遅い。・・・)
が、近藤はさあらぬていで同意し、芹沢にも徴募にまわってもらった。しかし芹沢の連中は怠情で近藤派のような足まめな仕事にぬかず、結局はまかせっきりになった。これがやがて、かれらの墓穴を掘ることになる。
徴募隊士はざっと百名。
諸国を流浪るろうして京大坂に集まって来た者が多く、どの男も、一癖も二癖もある面構えをしていた。
歳三は、山南敬助と相談しながら、これらの宿割をした。
あとは、百数十名にふくれあがったこの隊を、どう組織づけるか、である。
「近藤君、これを二隊にわかて、貴下が一隊、それがしが一隊持ちますか」
などと芹沢はいい、近藤も同意しかけたが、歳三は、それに極力反対した。
「それなら、烏合うごうの衆になる」
というのだ。歳三の考えでは、これらが烏合の衆だけに、鉄の組織をつくらねばならない。しかし、どういう組織がいいか。古来、

という組織がある。これが日本の武士の唯一の組織だが、参考にはならない。かれらには藩主というものがあり、主従で結ばれている。しかもその藩兵体制は戦国時代のままのもので、不合理な面が多かった。歳三にはなんの参考にもならず、このさい、独創的な体制を考案する必要があった。
歳三は、黒谷の会津本陣に行き、公用方外島機兵衛に仲介してもらって、洋式調練にあかるい藩士に会い、外国軍隊の制度を聞いたりした。
これは参考になった。参考というより、むしろ洋式軍隊の中隊組織を全面的に取り入れ、これに新選組の内部事情と歳三の独創を加えてみた。これがこの新しい剣客団の体制となった。
2023/08/10
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