~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
高 瀬 川 Part-03
あとは、乱刃といっていい。
相手も、出来る。背後からあやうく斬りおろされそうになったとき、歳三の頭上に鴨居があった。
ぐわっ、と鴨居が鳴った。歳三はキラリと振り向くと、そこに顔がある。
武州の顔である。
眼に、恐怖があった。
男は、刀を抜き取るなり、庭先に飛び下りた。
つられて、歳三も飛び下りた。こけが、足の裏に冷たい。
男は、裏木戸をあけた。
すぐ、がけである。一丈ほどの石垣いしがきが、ほとんど垂直に組まれている。跳び下りれば、足をくじくだろう。
男は、ためらった。
よいの星が、東山の上に出ている。
「おい」
と歳三は言った。
「七里研之助は、達者か」
「土方」
男は、裏木戸から、身をやみ虚空こくうにせり出した。
「覚えてろ」
飛んだ。
「・・・・」
歳三は、座敷の方を振り返った。沖田が来ている。
沖田は座敷の真中に突っ立ち、すでに剣を収め、左手をふところに入れていた。
豪胆な男だ。
足もとに死体が二つ。むろん、沖田が片づけたものだろう。
「ふむ」
歳三は袴をおろしながら、
「いまの男、八王子の甲源一刀流のやつだ」
「七里研之助の手下ですな」
「逃した。もうすこしで、武州の恨みを晴らしてやるのだったが、惜しいことをした」
「土方さんは、執念深い」
「それだけが」
歳三は、縁へあがった。
「おれの取り得だ」
「妙な取り得ですな」
「いずれ、七里研之助とも、どこかで出くわすことになるだろう。あれほどの男だ。やつも、それを楽しみに待っているにちがいない」
「驚いたなあ」
沖田は、歳三の顔を覗き込んで、
「田舎の喧嘩を花の京にまで持ち起すのですか」
「そうだ」
「土方さんには、天下国家も、味噌みそもなんとかも、一緒くたですな」
「喧嘩師だからな」
「日本一の喧嘩師だあ。ただ惜しむらくは、土方さんには、喧嘩があっても国事がない」
「その悪口、山南敬助かrきいたか」
「いいじゃないですか」
二人は、通りへ出た。
剣戟けんげきに恐れをなしたのか、木屋町は軒並に表を閉ざして、ひっそりと息をこらしている。
人通りもない。
三味しゃみの音も、絶えている。
「いまの一件、始末しておく必要がある。会所へ寄ろう。こっちだ」
北へ歩きだした。
わるいことに、会所のそばに、長州屋敷の裏塀うらべいがある。
(あぶないな)
沖田ほどの者でも、そう思った。
2023/08/13
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