~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
祇 園「山 の 尾」Part-01
京は、大寺おおでら四十、小寺五百。
それが、旧暦七月、盂蘭盆うらぼんの季節に入ると、この町のどの大路も露地も、にわかに念仏、かね読経どきょうの声にみちる。
「仏臭え」
と、歳三は、吐き捨てるように言った。武州の盆は土臭いものだが、こんな陰々滅々としたものではなかった。
「やりきれませんな。町を歩いていると、着物の縫目まで抹香まっこうの匂いがしみそうだ」
と、沖田までが言った。むろん新選組では、盆が来ても隊士の供養くようはしない。その点、盆が来てもあっけらかんとしたものである。救うも救われぬも、神仏は自分の腰間の剣のみ、という緊張が、隊士のはらの底にまである。
そういう日の朝、隊から新仏にいぼとけが出た。隊士とおぼしき者が、千本松原で、惨殺ざんさつされているという報せが奉行所からあったのだる。
「山崎君、島田君」
と、歳三は、監察方の連中を呼んだ。
「行ってもらおう」
彼らは出かけて行った。
やがて戻って来て、副長室の歳三にまで報告した。
「死体は、赤沢守人もりとでした」
という。背後から右肩に一太刀、これが最初の傷らしい。ついで前から左袈裟、首に二ヶ所。これは絶命してから斬ったらしく、血が出ず、白い脂肪がみえたいた。
「そうか。──」
歳三は、しばらく考えた。やがて眼をぎらぎら光らせはじめた、何も言わない。監察たちも気味が悪くなったらしく、
「いずれ、とくと調べましたうえで」
と、退出した。
歳三は、すぐ、隣の近藤の部屋を訪ねた。
「なんだ」
そう言ったきり、近藤は顔をあげない。
字を習っている。独習である。
(三十の手習いだな)
と歳三はよくからかう。
もともと、近藤は関東にいたころはひどい文字を書いていたのだが、京にのぼってからは、
(新選組局長がこれでは)
と、にわかに発心ほっしんして手習いをはじめた。士大夫したいふたる者唯一の装飾は、書であろう。書がまずければ、それだけで相手にされない場合も覆い、と近藤は考えている。
「ほう」
歳三は覗き込んだ。
「だいぶ、うまくなったな」
「もともと、手筋はいいのだ」
近藤の手習いは、徹頭徹尾、頼山陽の書風のまねであった。勤王運動の源流になったこの文学者の書風を近藤がもっともこのんだ、というのはおもしろい。
「歳も手習え」
「私かね」
「君はいつまでも武州の剣客ではあるまい」
「私はいいさ」
「いいことはないだろう。書は人を作るときいている」
「あれは、儒者のうそだ」
「君は独断が多くていけない」
「なに、こんな絵そらごとで人間が出来るものか。私は我流でゆく、諸事。──」
「我流もいいがね。しかし」
「我流でいいのさ」
「しかし気は、しずまるものだぞ」
「しずまっては、たまるまい。この乱世で、うかうか気をしずめていては、たちどころに白刃を受ける。あんたも、そんな妙な鋳型いがたを学んで、関東のあらえびすの気概を忘れてもらっては困る」
「白刃といえば」
近藤は無用の議論を避け、話題を変えた。
2023/08/15
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