~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
祇 園「山 の 尾」Part-02
今暁こんぎょう、千本松原で斬られていた隊士は、赤沢守人だったそうだな」
「ほほう」
歳三は、急に眠そうな顔で言ったが、脳裡をすばやく駈けめぐったのは監察団を掌握している副長職の自分よりも、一足飛びに局長近藤の耳に入れたのは、たれか、ということである。順が違うではないか。順を乱すのは、組織を自分の作品のよに心得ていた歳三にとって隊律紊乱びんらんの最大の悪であった。
「たれかね、その、あんたの耳に入れたはねっかえりの監察は」
「監察ではない」
「ない?」
歳三は、近藤の手から筆をとりあげ、
「それはおかしい、私はたった今、現場から戻った監察に話を聞いた。それをあんたに伝えようと思って、ここへ来ている。ところが、あんたが、ひょっとすると監察よりも早く知っていた。どういうわけだろう」
「私は、だいぶ前に聞いたよ」
「だいぶ前とは?」
かわやに立った時からだから、一時間はんときも前だろう。例の野口君(健司・助勤)、あれと廊下ですれちがったとき、野口君が言った。赤沢守人君が長州の連中にやられました、と」
「長州の連中に? 野口君が下手人まで知っているとは妙だな」
「この書は、どうだ」
近藤は、書き上げた山陽の詩を見せた。本能寺の長詩のなかの数句である。
「読めるだろう」
「馬鹿にしてもらっては困る」
── 老坂おいのさか西ニ下レバ備中びっちゅう ノ道。
と、歳三は目読した。
(ひっとすると)
歳三は、近藤のへたな筆で書かれた長詩をゆっくり眼でひろってゆきながら、
(赤沢を斬ったのは、長州の奴らではなく芹沢一派ではないか。敵は、存外、本能寺にいそうだ)
カンである。
が、歳三は、自分のカンを、神仏よりも信じている。
野口健司は。新見、平山、平間とともに水戸以来の芹沢の股肱てあしの子分で、腕もたつ。弁もたつ。学もある、小才もきく。
が、薄っぺらで実がなく、屁のような男である。どうもああいう男は好かない。
2023/08/15
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