~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
再 会 Part-03
歳三は、すぐ屯営とんえいを出た。どこへ行くか、行先は、沖田にだけは告げておいた。
今日のあの瞬間ほど、歳三は人間の心の働きのふしぎさを思ったことはなかった。
じつをいうと、朝、佐絵をおもった。想うと、たまらなくなった。
武州府中の六社明神の祠官しかん猿渡さるわたり佐渡守さどのかみの妹佐絵とは、関東にいたころ、数度通じた。
通じた、という女は、あの時代の歳三には何人か、指を折るほど居はしたが、しかし、恋をおぼえたことはない。鈴振り巫女みこの小桜や、八王子の専修坊の娘おせん・・・、それに、歳三にとっては思い出したくない履歴だが、十一歳のとき、一時、江戸上野の呉服松坂屋に小僧にやられたことがある。そのころ、そこの下女に、男女のことを教えられ、それが番頭にみつかって、生家さとに帰された。が、すべては古ぼけた過去になった。
(佐絵だけは。・・・)
想い出されるのである。しかしそれも、ときどきではあったが。
(いい女だった)
京では、島原でも祇園でも一通りは遊んだ。しかし、床上手とこじょうずで知られた京のあそでも、佐絵ほどのつよい記憶を、歳三の体に残していない。
(が、過ぎたことだ)
とは思っている。
だから、猿渡家の慣例により、佐絵が京にのぼって、九条家に仕えていることを知っていながら、会いに行こうとはしなかった。
(おれは恋など出来ぬ男だ)
と、我が身の冷ややかさに、あきらめはつけている。
(それがおとこだ)
とも思っていた。が、今朝、暁の夢の中で、佐絵を抱いた。目覚めてなおその夢の記憶を楽しむうちに、にわかに人のいう恋慕のようなものが突き上げて来て、床の中にころがっている歳三を狼狽させた。
(おれにも、そういう情があったのか)
起きあがって身支度をし、隊務をとろうとしたが、なにもかも物憂ものうくなった。歳三にはときどきこういうところがある。
そんな時は、籠って、句を作った。自分でもうまいとは思っていないから、句作している時は、人を寄せつけない。
句が出来た。
それがあの句である。
ところが男女とは妙なもので、沖田総司が、きょう町で佐絵にばったり出逢ったという。場所は清水きよみず
佐絵は物詣ものもうでの姿で、清水の坂を下って来た。安祥院の山門前で、沖田らとすれちがった。佐絵が呼び止めた。沖田は佐絵を知らなかったが、佐絵の方が知っていた。
── 土方さんに、一度お会いしたい。
と、佐絵は言い、後刻屯営へ道案内の小者をやるから歳三にそのむねを伝えてくれと頼んだ。
「沖田様、頼まれてくれますね」
武州女らしく、きびきびしkぃめつけ口調で言った。沖田は久しぶりで関東女のことばを聞いて、楽しかった。
「頼まれますとも」
「きっとですよ」
佐絵は立ち去った。髪はふつうの高島田で、服装も武家風であった、と沖田は言う。
佐絵が仕えている前関白さきのかんぱく九条尚忠ひざただは皇女和宮かずのみや降嫁こうか事件で親幕派とみられて、いまは落飾して九条村に隠遁いんとんしている。それにともない佐絵の境涯きょうがいがどうなっているのか、歳三はちょっと気になった。
2023/08/25
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