~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
二帖半敷町の辻 Part-01
そのこと・・が、済んだ。
歳三は、佐絵に背を向けて坐り直している。佐絵は背後で、身づくろいをしている様子であった。
(むなしすぎる。・・・)
歳三は、黄ばんだ畳に眼を落とした。自分に対し、なんともやりきれぬ気持であった。
(くだらん)
自分が、である。
せっかく猿渡家の佐絵と再会したのに、こんな破れ畳の上情交をいそぐと、なんといううそ寒いことだ。
かつて歳三は、豪奢ごうしゃな情事にあこがれていた。情事は豪奢でなければならぬと思ってい。つねに、武州では、貴種のむすめをうた。佐絵もそのひとりだった。
そのふたりが京で再会したというのに、この逢瀬おうせは、馬小屋で媾合こうごうする作男の野合にひとしい。
佐絵も、みじめである。犯されるようにして歳三の体重を受け入れつつも、佐絵はみじめな思いをしたろう。
一瞬で、過去がせてしまった。
(過去の綺羅きらを褪せさせぬためには、別の場所を用意して逢うべきであった)
過去には、それだけの用心と智恵ちえが必要だと思った。
(たのしくはない)
気持がみじめになっただけのことではないか。
歳三は、脇差わきざしから、小柄こづかをぬいた。つめを削りはじめた。できれば、指を突き破って血を出してみたい衝動である。
「土方さま」
佐絵はふりかえった。
彼女は、そんな呼び方をするようになっている。やはり、武州日野宿石田在の薬売りの歳、と「いおうより、京を震撼しんかんさせている新選組副長としての新しい印象が、佐絵の眼には濃いのであろう。
「なにかね」
「おかわりになりましたのね」
ちょっと、侮蔑ぶべつするように言った。佐絵も、はげしい失望があったのだろう。
「自分では変っていないつもりだが」
「いいえ、別人のように」
佐絵は、おくれ髪をなでつけた。
「おれのどこが変わった」
「全体に」
「わかるように云ってくれ」
「あのころ、私どもの情事なかは、犬ころがじゃれあっているよに楽しゅうございました。土方さまも、いいえ歳さんも、犬ころみたい無邪気だった。いまはちがいます」
「どこが?」
佐絵にも、わかるまい。歳三にもわからぬことだった。
(が、考えてみれば ──)
歳三、爪を一つ、ぎ落した。
(おれはかつて、佐絵の身分にあこがれていた。それが、万事そぶり・・・になって、佐絵にはういういしくみえたのだろう。が、いまはかつてとは、おれの立場がちがう。たかが武州の田舎神主の娘を、貴種だとは思わなくなった。なるほど、かわった。これは非常な変りようかも知れない)
爪をまた、削ぎ落した。
(愚痴の沙汰さただった。過去はおもい出すべきもので、抱くべきものではなかった)
「あんたも、かわった」
「それは別人におなり遊ばした土方さまの眼からみれば、変ったようにはみえましょうけれど、佐絵は、昔のとおりでございます」
(ちがう)
佐絵は、あきらかに別人になっている。第一、公卿のお屋敷奉公をしているというが、なり・・は昔どおりの武家風だし、着物の裾があかじみていて、なんとなく暮しにやつれている、という風情ふぜいだった。
2023/08/26
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