~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
二帖半敷町の辻 Part-02
「やはり、九条家に勤仕ごんししているのかね」
「ええ」
「うそだろう」
佐絵は、はっと顔を白くした。
(うそにきまっている。なるほど京にのぼったのは九条家に仕えるつもりだったし、仕えもしただろう。が、なにかの事情で主家を出ていまは町住いをしているにちがいない)
歳三は、小柄を左手に持ちかえた。右指の爪を切るためである。
(思いたくはないが)
歳三は、親指の爪に小柄の刃をあわせ、ぐっと力を入れた。爪が、はじけとんだ。
(佐絵どのは。体がかわったいる。亭主か、情夫おとこを持っているに違いない。様子を見れば、暮しも楽でなさそうだ)
歳三は、佐絵を見た。
「御亭主は、長州人ではないのかね」
佐絵の顔色が変わった。
「逢わぬほうがよかった」
歳三は笑った。
「今日のことは、忘れます。── 佐絵どのも」
忘れてくれ、と立ち上がった。男の身勝手かも知れぬが、歳三は、胸中にあるかつての猿渡家の息女の像をこわしたくはない。
障子を閉め、土間へおりた。
暗がりで履物をさぐっているとき、ふと表の方で人の気配がした。隣家の者か、とも思ったが、習性で、。そのまま路上に出る気はおこらない。
裏へ突きぬけ、裏の木戸を開けて、外へ出た。ここには、人影はない。
(ひょっとすると、わるいひも・・がついているのかも知れぬ。なにしろ公卿屋敷に奉公していたのだ。出入りの尊攘そんじょう浪士もおおぜい居たろう。九条関白が失脚して洛南らくなん九条村に隠棲いんせいしてからは、佐絵はその尊攘浪士のひとりと一緒になったのかもしれぬ)
歳三は綾小路を西へ歩きだした。仏光寺門前まで出て、駕籠かごを頼むつもりである。
(どんな情夫だろう)
歳三は、歩く。うずくような嫉妬しっとがあったが、歯の奥で必死にみ殺した。
むろん歳三は、かつて自分と情交のあったその女が、いまは勤王浪士のあいだで才女の名を売っている女丈夫になっていよういとは、このとき、うかつにも露も知らなかった。
猿渡佐絵。
もとは九条家の老女。
いまは、宝鏡寺尼門跡あまもんぜき里御坊さとごぼうだった大仏裏の古家に住み、人に歌学を伝授している。
というのは表向きで、この里御坊は、諸藩脱藩の士の隠れ場所の一つであった。佐絵は彼らの考えに共鳴し、この古家を管理しながら、彼らを世話し、勤王烈女、といった存在になっている。その間、何度か男を変えた。土州藩士もいた。長州藩士もいた。かと思えば国許くにもともさだかでない無頼漢同然の「志士」もいた。男を変えるたびに、彼らからの感化が、佐絵の中で深くなった。
佐絵には旧主九条家のうしだてもある。屋敷づとめのおかげで、堂上衆ての顔もきいている。浪士たちが公卿に会いたいというときは、仲介の労をとってやった。自然、浪士の間で重んぜられるようになった。
佐絵は、いまの境涯に満足している。国許の猿渡家に帰っても、すでに兄の代になっている以上、出戻りの妹のすわる場所がなかった。それよりも京がいい。毎日に、はりがある。
(佐絵は、かわった)
2023/08/27
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