~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
二帖半敷町の辻 Part-03
歳三は、仏光寺門前の「芳駕篭よしかご」に入って駕籠を命じた。
芳駕籠の亭主は、歳三の顔を知っている。
「あっ」
と恐縮し、若い者を祇園ぎおんまで走らせた。町駕篭は江戸なら不自由しないが、京では、遊里の付近にのみ常駐させている。芳駕篭ほどの店でも、夜分は店には一挺いっちょうもない。
その間、時間がありすぎた。
歳三は、かまちに腰をおろした。芳駕篭では、女房まで真青まっさおに緊張した顔で、茶の接待をした。
「むそうございますが、奥へおあがりねがえませぬか」
「いい」
歳三は、この男の癖で、ぶすっと言った。取りつく島もない顔つきである。
「しかし、それでは」
と、夫婦がおろおろしている。新選組も、初期の芹沢のころは市人にただその粗暴を怖れられるのみであったが、最近では、京都守護職御預おあずかりという一種の格式にずしりとした重味がついてきている。その副長といえば、もはや、今の京では錚々そうそうたる名士である。とはいえ、歳三という男はいつも屯営内に居て、諸藩との社交は一切しなかった。市中、幼童でも、新選組副長土方歳三の名は知っていたが、顔、姿まで知っている者は少ない。そういう陰気で不愛想な印象が、かえって戦慄せんりつすべき名前として市中にひろまっていた。
芳駕籠の夫婦のうろたえにも、そういう先入主があるからだろう。
長い時間が経ってから、歳三は、やっと口をきいた。
「亭主、すまぬが」
歳三の眼は、暗い土間を通して往来を見つめたままである。
「店を、人がうかがっているらしい」
「げっ」
「驚くことはない。どうたら私の後をつけて来た男がいるよう。すまぬが、内儀にでも御面倒を願おう。表通りを一丁ほどのあいだ、様子を見て来てくれまいか」
「へっ」
亭主は臆病おくびょうな顔をした。
が、こういったことになると、女の方が度胸のすわるものらしい。まゆのそりあとの青々した芳駕籠の女房が、
「見て参じます」
提灯ちょうちんを持って出て行った。
やがて戻って来て、
「竹屋町の角に二人、二帖半敷町の角に三人、見なれぬご浪人がお居やすようで」
「五人」
「へい」
「多すぎるようだな」
歳三は、ちょっと笑った。
女房もついりこまれて笑い、美しいおはぐろ・・・・をみせた。どうやら歳三に、好意を持ちはじめているらしい。新選組副長と言えば鬼のような男かと思っていたのが、案外、まぶた二重ふたえのくっきりした、眼もとの涼しい男なのである。
「あの土方先生。なんならういちの若衆を壬生までお使いに走らせましょうか」
加勢を頼め、という意味だ。その女房のそでを、亭主がそっと引いた。
(よせ)
という合図だろう。新選組に好意を示したとあれば、あとで浪士たちからどんな仕返しを受けぬともかぎらない。
「いい」
歳三は、なた不愛想な表情にもどった。
やがて、駕籠が帰った来た。
こういう垂のあるのを江戸では四つ手駕籠というが、京では駕籠という。形は似ている。
「亭主、威勢のよさそうな若者だな」
「へい、丹波者でございまうさかいな」
「丹波者は威勢がいいのか」
「まあ、上方かみかたではそう申します」
「それは頼もしい」
歳三は、ふところ から銀の小粒を取り出して若衆にあたえた。
「こんな沢山ぎょうさん
「いや、とってもらう。ところで、私は歩いて帰る」
「へえ?」
土間で、一同があきれた。
「しかし頼みがある。私のかわりにそこのたるに水を一ぱい入れて鴨川まで運んでくrぬか」
旦那だんな。──」
芳駕籠の亭主には、歳三の頭の中に描いたからくりが読めたらしい。
「困ります」
竹屋町の角に浪人が二人たむろしている。樽を乗せた駕籠を、新選組副長だと思って襲うだろう。
若者は駕籠を捨てて逃げるからまず怪我けがはあるまい。しかし、あとで、そういう仕掛けに協力した、といって乱暴な浪士どもからしりを持ち込まれるのは、亭主の方である。
内儀も、歳三の考えがわかった。しかし亭主とは別の態度を取った。
「安どん、七どん。すぐ樽の支度をおしやす。なるべくお人を乗せているように重そうにかつぐのどすえ」
「へっ」
丹波者が駕籠を土間に引き入れ、水樽の用意をし、やがて、
「あらよっ」
と担ぎあげた。どう見ても十七、八貫はあるだろう。
駕籠が出た。東へ。
2023/08/28
Next