~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
二帖半敷町の辻 Part-04
すぐそのあと。歳三は軒下を出て、それとは逆の西へ向った。提灯は持たない。尾行者は、駕籠に注意を奪われて歳三に気づかなかったろう。
十数歩あるいたとき、背後の竹屋町の辻とおぼしいあたりで、予期したとおり、
「わっ」
と駕籠を投げ出す物音が聞こえた。
(やったな)
歳三は、すでに、二帖半敷町の辻を過ぎてしまっている。内儀の見たところではこの辻に浪人が三人いたというが、影はない。駕籠に誘い込まれてどこかへ散ったのだろう。
その時、
(来たか)
と歳三は、そこまで読み切っていた。すぐ、南側の家の軒下へ身を寄せた。
竹屋町から、ばたばたとこちらへけて来る四、五人の足音がする。水樽とわかって、引き返して来るのだろう。
(無事、壬生へ帰れそうだ)
歳三は、出格子でごうしのかげで、からだを細くした。そこまで、この喧嘩けんか上手の男の読んだとおりであった。
が、その連中が、竹屋町と二帖半敷町の中間にある芳駕籠の店に押し入った時に、歳三の見当がくるっ。
(いかん。──)
難癖をつけに入ったのだろう。甲高く騒ぐ声が、ここまで聞こえて来た。
歳三は、みちに出た。
そいのまま、騒ぎを見捨てて西の方壬生へ歩きだしが、足が渋った。
(内儀が、あわれだな)
しかし、今夜は、早く屯営へ帰りたいと思った。なにもかも物憂ものうくなっている。酒がほしい。
歳三は、歩いた。
見当はついている。あの連中は、佐絵となにかのつながりがあるのではないか。佐絵が手引きしたのではないか。そう思っても、歳三はふしぎと怒りも、闘志も起こらなかった。
── 知れば迷ひ
知らねば迷はぬ恋の道
(わらながら、まずい句だな)
歳三は、星を見上げた。
恋の道、と結んでみたが、歳三は、自分が果たして恋などしたことがあるのか、とうそ寒くなった。
おんな・・・はあった。しかし恋と言えるようなものをしたことがない。かろうじて、おもい出の中の佐絵の場合がそれに似ていたが、似ていただけのことだ。ほんの先刻、むなしくこわれている。
(おれはどこか、片輪な人間のようだ)
歳三は、自分へ、思い切った表情で軽蔑けいべつしてみせた。
(こお歳三は、おそらく生涯しょうがい、恋など持てぬ男だろう)
それでもいい、と思った。
(人並みなことは、考えぬことさ)
歳三は歩く。
(もともと女への薄情な男なのだ。女の方はそれがわかっている。こういう男にれる馬鹿はない)
しかし剣がある。新選組がある。これへの実意はたれにもおとらない。近藤がいる。沖田がいる。彼らへの友情は、たれにもおとらない。それでいい。それだけで、十分、手ごたえある生涯が送れるのではないか。
(わかったか、歳。──)
と自分に云いきかせたとき、歳三はくるりと振り返った。
路上にしゃがんだ。鯉口こいぐちを切った。
四、五人の足音が、自分を追って来ているのを知ったのである。おそらく、芳駕籠の亭主が、白状したのだろう。
影は五つ。
そのうち三つが、二帖半敷町の辻でとまり、二つだけ、無心に近づいて来た。
── こっちか。
一人が、他の一人に言った。
── とにかく室町の通りまで出てみよう。
が、彼等はそこまで出る必要はなかった。
数歩行ったところで、路上に蹲踞そんきょしている男を発見したからである。気づいた時には、ほとんど突き当たりそうになってい。
「あっ」
男は飛びのこうとした。右足をあげ、刀のつかに手をかけた。が、そのままの姿勢で、わっとあおむけざまにころがった。歳三の和泉守兼定が下からはねあげて、男のあごを割っていたのである。
歳三は立ち上がった。
「私が、土方歳三だ」
「・・・・・」
られずに済んだ他の男は、しばらく口をひらいたままこの現実が理解出来ぬ様子だったが、やがて、声ならぬ声をあげると、二帖半敷町の辻へ一散に逃げた。
辻の三人は、どよめいた。
そのときはすでに、歳三は、路上にいない。北側の家並みの軒くらがりを伝って、辻に近づいている。
── たしかに、居たか。
この仲間の音頭を取っているらしいびた声が聞こえた。
歳三は、飛び出そうとした。が、土をつかんで、自分をとめ。
(七里研之助ではないか)
目覚めるような驚きである。七里が、京にのぼっていることも聞いている。だけでなく、七里らしい男が、河原町の長州屋敷へ出入りしているということは、藤堂平助も目撃した。げんに、七里の八王子での仲間の一人を、歳三自身、木屋町で討ちらしている。
「七里」
歳三の影が物陰ものかげから吐き出された。
「おれだよ」
と言った時には、歳三はすでに星空に向かって跳躍してい。すでにいっぴきの喧嘩師がそこにあった。もう、なんの感傷も低徊ていかいもない。手足だけが躍った。七里のそばの男が肩を右首のつけ根から斬り割られてころがり、その上を飛び越えて、二の太刀が、七里を襲った。
七里は防ぐまもなく、辻行燈つじあんどんまで飛びさがって、やっと抜刀した。
2023/08/29
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