~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
局中法度書 Part-01
「土方歳三。──とうとう出会った」
七里研之助は、辻行燈の腰板で背中をさすりながら、言った。いながら、ゆっくりと、剣先をしずめている。
「土方」
七里は楽しそうだ。
「武州の芋道場いもどうじょうの師範代が、いまは花の都の新選組副長をなさっている。乱世ながらたいしたご出世だ」
「・・・・」
歳三は、上段。
「出世したからといって、この七里を見限ってもらっちゃこまるよ」
「だから、相手になっている」
「結構々々、ところで近藤さんは、お達者かね。いずれ、おめもじするつもりだが」
「達者だ」
歳三は、吐き捨てるように言った。
「そりァ、よかった。なつかかしい、と云いたいがね。普通なら、その辺でいっぺえどうだ、と云いたくなるほど、たがいに浅からぬ縁だが、縁は縁でもお前、とんだ逆縁さ」
「逆縁だな」
「武州南多摩の泥臭どろくせえ喧嘩を、花の都にまで持ち込んで蒸しかえしたくはねえんだが、お前らとは、どうもわねえように出来ている」
「河原町の長州長屋にごろついていると聞いている」
「おれの母方が、長州藩の定附じょうふ御徒歩おかちでね。長州とはいろいろ因縁いんねがある。武州の田舎で、泥鰌どじょうくせえ野郎と喧嘩をしているより男らしい死に方をしてやろうと思ってきたにだが、その泥鰌臭えのが、、またつながってのぼって来やがった」
「話しの腰を折ってすまないが」
歳三は、言った。
「佐絵どのをご存じかね」
七里は、黙った。
知っている、と歳三はみた。七里は、佐絵との間に何等かの連絡があって、きょう歳三をつけていたのだろう。
「知らないよ」
「ばかに元気がなくなったようだ。存外、正直者とみえる」
七里は、返事のかわりに剣を中段になおした。その瞬間、歳三の剣が、すばやく上段から落ちた。
が、七里はもうそこにはいない。
ざくり、と歳三の切尖きっさきで、辻行燈の腰板が裂けた。引き抜くなり、足を大ききあげて、辻行燈を蹴倒けたおした。
行燈のむこうから、七里が飛び出した。
「ちょっとなぶってみたのさ」
七里が笑った。
そにうち、歳三の背後に回った一人が、ぱっと仕掛けてきた。あやうく飛び退いたが、はかまを切られた。
(どうかいている)
剣に、はずみがつかない。喧嘩というのは弾みのついた方の勝ちである。やはり、佐絵に対する複雑な印象が、心を重くしているのだろう。
こういうときには、なりふりかまわずに退きあげてしまう。それが喧嘩上手というものだ。とは、歳三は百も知っている。武州の田圃たんぼで泥喧嘩をしているときの彼なら、一議もなく逃げ去ったろう。が、いまはにんがちがう。新選組副長である。喧嘩にも体面がある。逃げた、とあれば、どんな悪評を京できちらされるか。
(なるほど佐絵のいうとおり、こんな所までおれはすっかりかわったな)
歳三は、刀を右手でかざしつつ、器用に羽織を半ばぬいだ。羽織をぬぎたいのではない。羽織は、歳三の、狡猾こうかつな誘い手である。
果然、半ばぬいだすきをねらって、右手の男が上段から撃ち込んできた。
(待っていた)
図に乗った相手の胴を、片手で下からすくうようにして斬りあげた。
「相変わらずの馬鹿力だ」
七里が、物蔭で舌打ちをした。七里ほどの者なら知っている。片手わざではよほどの力がないかぎり人が斬れるものではない。
歳三は、やっと羽織を脱ぎきった。
「七里、もそっと寄れ」
「寄れねえよ。妙にたぎって調子づいた野郎に仕掛ける馬鹿ァなかろう」
この男も、ただの剣客ではない。喧嘩の勘どころは知っている。歳三の気魄きはくが異常に充実しはじめたのを見て、刀をひき、物蔭をさらさらと歩き、
退け」
と命じた。
一せいに散った。
歳三は追わなかった。
(七里も、にんふとってきやがった)
京に集まっている数ある浪士の中で、人傑も多い。七里のような男でもそういう者にもまれて平素、国事の一つも論じているせいか、八王子のごろん棒当時とはだいぶ印象がちがっている。
(男とは妙なものだ)
毛虫からちょうになるような変質も、ときにはあるらしい。
2023/08/30
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