~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
池 田 屋 Part-02
「どうだった」
と、近藤が聞いた。
「まだわからん。が、総司も原田も、武士らいいものがあの無明小路にしきりと出入りしているのを見ている」
「しかし、万々、間違いなかろう」
「そうありたい」
もともとは、近藤自身が聞き込んだことなのである。
実は先日、近藤自身が隊士を率いて市中巡察をし、堀川の本圀寺ほんこくじ (水戸藩兵の京都駐留所に使われている)の門前まで帰って来た時、
「やあ、おめずらしい」
と、近藤の馬前に立ちふさがった一人の武士があった。すわ、刺客か、と隊士がけ寄ると、武士は一向にあわてず、
「わしです、江戸の山伏町に住んでいた岸淵兵輔きしぶちひょうすけです。江戸では、貴道場でさんざんお世話になった・・・」
近藤は、馬から降りた。記憶がある。江戸道場が後楽園に近かったせいで、水戸藩邸の下士がよく遊びに来ていたが、岸淵もそのひとりであった。足軽の子、とか聞いていたが、学問も出来、態度も重厚で、とてもそういう軽輩の出とはみえなかった。
今も、服装こそ質素で、皮色木綿の羽織に洗いざらした馬乗りばかまというていだが、すっかりふとって堂々としている。
「去年から、京都詰めになっています。土方氏、沖田氏、御活躍だそうですな」
「路上ではお話しもうけたまわれぬ。壬生へ御光来願えませんか」
近藤というのは、こういう人懐ひとなつっこさがある。抱くようにして連れて帰った。
さっそく酒席を設け、歳三も出た。
当節、在洛ざいらくの武士というのは、二人以上集まれば、国事を論ずる。そういう緊張した空気を、京の町は持っていた。時代が沸騰ふっとうしきっているのである。
昨年八月、いわゆる文久の政変があり、それまで京都政壇を牛耳ぎゅうじっていた長州藩が一夜で政界から失脚し、長州公卿くぎょう七人とともに国許くにもとへ撤収した。
以来、長州藩の若手は過激化し、諸藩脱藩の急進的な浪士はほとんど長州藩に合流し、討幕挙兵の機をねらっている。
が、薩摩藩、土佐藩、それに会津藩、越前藩という政治感覚の鋭敏な大藩がすべて反長州的感情を持ち(この感情には複雑な内容があるが、要するに長州藩の権力奪取活動があまりにも過激で時勢から独走しすぎ、結局、長州候が幕府にとってかわろうとする意図があるのではないかという疑いが濃厚すぎたためである。長州候自身、その若い家臣団にていよく乗せられたところがあったらしく、維新後、長州の大殿さまが、おれはいつ将軍になるんだ、と側近に聞いたという伝説さえある)、とにかく長州一藩の軍事力では、幕府や、右「公武合体派」の四藩を敵にまわすことが出来ない。
そういう情勢にある。
だから、長州荷担の浪士団を含めて秘密軍事組織をつくり、それを京に潜入させて、一気に町を焼き、土寇的どこうてきな勤王一揆いっきをあげようとしている、という風評は、京の町人の耳にまで入っており、様々の流言が飛び、気の早い連中の中には田舎へ避難準備をしている者があるくらいだ。長州も追い詰められて、悲痛な立場に立っている。これが成功すれば義軍、失敗すれば全藩土匪どひの位置におちるだろう。
岸淵兵輔は、情勢を様々に論じた。この水戸藩士はごく常識的な公武合体論者で、長州のはねっかえりが、にがにがしくて仕様がないらしい。
その点、近藤も同じだ。
ちかごろ、なかなか弁ずる。滑稽を解せぬ男だから、弁ずると、寸鉄人を刺すような論を吐く。
歳三は、黙っている。歳三にとって、空疎くうそな議論などは、どちらでもよい。彼の情熱は、新選組をして、天下最強の組織にすることだけが、自分の思想を天下に表現する唯一ゆいつの道だと信じている。武士に口舌は要らない。
2023/09/02
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