~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
池 田 屋 Part-04
古高は当夜は壬生屯所のろうに入れられ、翌日、京都所司代の人数に檻送かんそうされて、六角の獄に下獄した。この夜から、獄吏の言語に絶する拷問ごうもんを受けたが、ついに何事も吐かず、のち七月二十日、引き出されて刑死した。
が、事態はすでに古高の白状を必要とせぬまでになっていた。古高の連判状によって、徒党の名がれなくわかっている。すでに新選、会津藩、所司代、町奉行の探索が活發かっぱつに動き、その結果、三条界隈に軒を並べている旅館に正体不明の浪人が多数宿泊していることもわかり、とくに三条小橋西詰めの旅館池田屋惣兵衛そうべえ方が、どうやら彼等の動きの中心になっているらしい。池田屋には、山崎が薬屋に化けて宿泊している。
さぐると、ほとんどが長州弁である。
守護職から、各個に捕らえてはどうか、という示唆しざが届いていたが、新選組は動かなかった。山崎から、
「一味はすでに、古高が捕らえられたことを知っているらしい」
という報告があったからだ。当然、あわてている筈である。暴発を中止してそれぞれ京から散るか、それとも短兵急に決行するか、善後策が必要なはずだ。そのために、かならず会合をするだろう。
「きっと、会合する」
と、歳三は言った。
近藤は、多少不安だった。
「このまま散らしてしまえば元も子もなくなるぞ」
「ばくちさ」
しかし、長州藩士とその与党は、まったく疎漏だったと言っていい。狭い三条界隈の旅館街を、たれが見てもそいうとわかる顔つきで、毎日、それぞれの宿泊所を訪ねあっているのである。
── 場所は池田屋、日は今夜。
とわかったのは、六月五日である。それも夕刻になってから、山崎の諜報ちょうほうが届いた。
ところが、おなじころ、町奉行所に依頼してあった密偵みっていから、
「今夜、木屋町の料亭丹虎たんとら(四国屋重兵衛)らし」
とも、言って来た。丹虎は、従来、長州、土佐の連中の使っている料亭で、池田屋よりはるかに可能性が濃かった。
近藤もこの報告には青ざめた。わずかな兵力を二分させることになるのだ。
「歳さん、これもばくちでいくか」
池田屋か、丹虎か、どちらかに兵力を集中させる、と近藤は言うのだ。
「そいつは、まずい。大事を踏んでここは二手に隊をわけよう。しかし」
兵力の按分あんぶんである。
どちらの場所に可能性が濃いか、ということで人数は決まる。
「山南さん、どう思う」
と、近藤は総長の山南敬助に聞いた。
「丹虎でしょう」
と言った。妥当な判断である。丹虎はそれほど討幕派ぼの巣として有名だった。
「私は、池田屋だと思う」
歳三が言った。理由はない。この男の特有なカンである。
「そうか」
近藤も、少年の頃から歳三のカンには一種の信仰しんこうのようなものをもっている。
山南は、近藤が歳三の案を採用したことに、露骨に不快な顔をした。近藤はその表情を鋭敏に見てとって、
「山南君にも一理がある。だから、歳さん、あんたは、山南君のいう丹虎のほうを押さえてもらおうか」
と言った。うまいらし手である。
歳三はうなずいた。
山南もそれとわかって、
「池田屋は私ですか」
と言ったが、近藤はにこにこして、
「これは私にやらせてもらおう。山南君はまだ攪乱かくらんのあとがえていない。大事な人を失いたくない」
と言った。山南は黙った。山南は長州に対し、やや近藤は知っている。
人数は、丹虎を襲う土方隊が二十数人、池田屋へ討入りする近藤隊が、わずか七、八人。
討入り後、近藤が、江戸にある養父周斎にあてた手紙にこうある。
折悪敷をりあしく、局中病人多にて、僅々きんきん三十人、二ヶ所の屯所(敵の)に二手に分れ、一ヵ所土方歳三をかしらとして遣はし(中略)下拙げせつ、僅々の人数引き連れで」
が、この人数の割りふりは、実に巧妙に出来ている。小人数の近藤隊には沖田総司、藤堂平助、原田左之助、永倉新八といった隊でも一流の使い手を揃え、土方隊は、人数は多くても粒から見れば落ちている。
「歳、いいな」
「いい」
薄暮、出動。
池田屋への討入りは、こく(夜十時)であった。近藤の手紙でいう。「(出口の固めにも人数を割いたため)打込み候の者、拙者始め沖田、永倉、藤堂、周平(養子)右五人に御座候。兼ねて徒党の多勢を相手に火花を散らして一時いっとき(二時間余)の間、戦闘に及び候ところ、永倉新八の刀は折れ、沖田総司刀の帽子折れ、藤堂平助刀は刃切出ささら・・・ごとく(中略)追々おひおひ、土方歳三駈けつけ、それよりは召捕り申し候(人数がふえたため斬り捨て方針を中止)。実にこれまでたびたび戦ひ候へども、二合と戦ふ者はまれに覚え候ひしか」
と、近藤は剣歴を誇りつつ、
「今度の敵、多勢と申しながら、いづれも万夫の勇士、。誠に危うき命を助かり申し候」
と、結んでいる。
この時の服装は、隊の制服である浅黄色の山形のついた麻羽織を一様に着用し、剣術の皮胴をつけ、下には鎖の着込みを着、頭に鉢金はちがねをかぶっている者が多かった。
歳三が私用した鉢金は、東京都日野市石田の土方家に残っている。二ヶ所、刀痕とうこんがある。
2023/09/04
Next