~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
断 章・池 田 屋 Part-01
歳三は、この池田屋り込みにあたって、その前日、綿密に付近を偵察ていさつしている。
この三条大橋は、江戸日本橋から発する東海道の宿駅で、大橋の東西の往来には旅籠屋がひしめいてい。
池田屋も、その一軒であ。
間口三間半、奥行十五間、二階だてで、一階向って右が格子こうし、左が紅殻壁べんがらかべ、二階もびっしり京格子で張り巡らされ、内部から外は見えても、往来から人に見すかされるような構造ではない。(いまはない。昭和六年、とりこぼたれ、その敷地あとに、鉄筋コンクリート四層の現在の佐々木旅館が建てられた)
祇園町に、会所がある。
実成院じつじょうんという祇園社の執行しぎょうをつとめる寺の門前にあって、このあたりだけは人通りが少ない。近藤、歳三は、ここを攻撃準備点に選んでいる。赤穂あこう浪士の場合の蕎麦やに相当するであろう。
その日、あらかじめ、隊服の羽織、防具などをこの会所に運び込んでおいた。壬生にある隊士たちは、夕刻、市中巡察を装って出る者、仲間と連れ立って遊びに行くようなふうを装う者、それぞれ人数ずつ、べつべつに壬生を出発した。
日没後、右会所に集合。

一方池田屋の楼上には、長州、土州、肥後、播州ばんしゅう、作州、因州、山城などの藩士浪士二十数人が、日没後、集まることになっている。約束、五ツ(午後八時)だったという。長州の桂小五郎(木戸孝允たかよし)も、来会する予定になっていた。
このこと、孝允の日記には、
「この夜、旅店池田屋に会するの約あり。五ツ時、このおくに至る。同志いまだ来らず。よって、ひとまづ去ってまた来らんと欲し、対州の別邸に至る」
とある。要するに、定刻には行ったが、未だ来ていなかったため、近所の対馬つしま藩の京都藩邸(河原町姉小路あねがこうじ角)に知人を訪ねた、というのである。
「しかるに未だ数刻を経ざるに、新選組にはかに池田屋を襲ふ」 とつづく。
桂は命拾いをしたのだ。この前後にも桂はよく似た好運を拾っている。命冥加いのちみょうがという点で、維新史上、桂ほどの男はない。
桂がいったん池田屋を去った直後、同志一同が集まって来ている。その主な者は、
長州 吉田稔麿としまろ、杉山松助まつすけ、広岡浪秀なみひで佐伯稜威雄さえきみずお、福原乙之進おとのしん、有吉熊太郎、
肥後 宮部鼎蔵ていぞうい、松田重助、中津彦太郎、高木元右衛門
土州 野老山ところやま五吉郎、北添佶麿よしまろ、石川潤次郎、藤崎八郎、望月亀弥太
播州 大高忠兵衛、大高又次郎
因州 河田佐久馬
大和 大沢逸
作州 安藤清之介
江州 西川耕蔵
といったところで、もし存命すれば、このうちの半分は維新政府の重職にういていたろう。一座の首領株は、吉田稔麿、宮部鼎蔵の二人で、当時、第一流の志士とされた。
2023/09/05
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