~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
断 章・池 田 屋 Part-04
肥後の松田重助は、二階で戦っていた。得物は、短刀しかなかった。この日、重助は変装して町人の服装だったからである。
そこへ沖田が駈け込んで来た。剽悍ひょうかんできこえた重助は短刀のままで立ち向かったが、たちまち打ち落とされ、左腕を斬られた。そのはずみに同志大高又次郎のしかばねにつまずいて倒れたが、倒れた拍子ひょうしに、死体が大刀をにぎっているのに気づき、もぎ取って再び沖田と戦ったが一合で斬られた。(この松田重助の弟山田信道がのち明治二十六年京都府知事になって赴任した時、闘死者一同の墓碑を一ヵ所に集めて大碑石を建てた)
すでに池田屋の周辺には、会津、桑名、彦根、松山、加賀、所司代の兵三千人近くがひしひしと取り囲んでいる。
切り抜けて路上に出た者も、多くは町で斬り死したり、重傷のため捕縛される者も多かった。
土州の望月亀弥太は屋内で新選組隊士二人を斬り、乱刃を駆け抜けて長州藩邸にむかう途中、会津藩兵に追いつかれ、路上、立ったまま腹を切った。
同じく土州野老山ところやま五吉郎も数創を負いながらやっと屋内を脱し、長州藩邸まで落ちのび、開門をせまったところ門はついに開かず、そのうち、門前で会津、桑名の兵二十数人に囲まれ、これも門前で立腹たちばらを切った。
志士側の即死は七人、生け捕り二十三人におよんだが、重傷のためほどなく落命した者が多い。
彼等はよく戦っている。わずか二十数人で、包囲側に与えた損害の方がはるかに大きかった。
玉虫太夫の「官武通紀」の記述によると、幕兵の損害は、次のようである。
会 津 即死五人、手負三十余人
彦 根 即死四人、手負十四、五人
桑 名 即死四人、手負少々
松 山、淀 右二藩いずれも少々死人、手負
実際に戦闘したのは新選組で、現場で即死した者は奥沢新三郎、重傷のためほどなく死亡したのは、安藤早太郎、新田革左衛門の二人である。その他、藤堂平助重傷。
斬り込みの最初からあれだけ戦った近藤、沖田は微傷も負わなかった。歳三もむろん、無傷である。
歳三は、この戦闘半ばから駈けつけのだが、土間から動かなかった。
階上は近藤、階下は歳三が指揮した。べつに事前に取り決めたのではないが、この二人は自然にそういう呼吸になるらしい。
途中、表口の原田左之助が戸口から顔をのぞかせて、
「土方先生、二階は近藤先生と沖田、永倉の両君ぐらいでどうやら苦戦のようだ。土間は私が引き受けますから、様子を見にいらっしゃればどうです」
と言った。が、歳三は、動かなかった。副長としては階下を守って近藤に出来るだけ働きやすくさえ、この討入りで近藤の武名をいよいよあげさせようとした。近藤の名をいやが上にも大きくするのが、新選組のために必要だと思っていた。
ときどき、階上から近藤のすざまじい気合が、落ちて来る。
「あの調子なら、大丈夫」
と歳三は笑った。
歳三の役目は、ほかにもあった。戦闘がほぼ片づきはじめたころ、会津、桑名の連中がともすれば屋内に入ろうとする。
いわば、敵が崩れた後の戦場かせぎで、卑怯ひきょうこの上もない。
「なんぞ、御用ですかな」
と歳三はそんな男の前に白刃をさげて立ちあだかった。新選組の実力で買い切っこの戦場に、どういう他人も入れないつもりである。
「おひきとください」
底光りのするこの男の眼を見ては、たれもそれ以上踏み込もうとしなかった。自然、幕兵約三千は路上に脱出して来る連中だけを捕捉ほそくする警戒兵となり、戦闘と功績はすべて新選組の買い占め同然のかたちとなった。
2023/09/06
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