~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
京師の乱 Part-01
池田屋ノ変によって新選組は雷鳴をあげたが、歴史に重大な影響ももたらした。
普通、この変で当時の実力派の志士の多数が斬殺ざんさつ、捕殺されたために、明治維新が少なくとも一年は遅れた、といわれるが、おそらく逆であろう。
この変によってむしろ明治維新が早く来たと見る方が正しい。あるいはこの変がなければ、永久に薩長主導によるあの明治維新は来なかったかも知れない。革命には、革命派の凶暴な軍事行動が必要だが、当時の親京都派諸藩のいずれも、それへ飛躍する可能性も気分もなかった。どの雄藩の首脳も、幕府にたてをつくことなどは考えもしていなかった。 ひとり、三十六万石(長州は製蝋せいろう、製紙などの軽工業政策や新田開発で百万石の経済力はあった)の長州藩という火薬庫が爆発したのである。
新選組を支配する京都守護職(会津藩)も。決行すべきかどうかで、悩んだらしい。
筆者はその実物を見たことはないが、事件の翌々日、京都の会津本陣(黒谷)から、江戸の会津屋敷にさしたてた公用方文書に、決行前の苦慮が、こう書かれている。意訳すると、
「彼ら長州人および人別外にんべつがいの者(浪人)の密謀を打ち捨てておいては、殿様(松平容保)の御職掌(京都守護職)がたたぬばかりか、患害が眼前に切迫している。かといってこれを鎮圧ということになれば、彼らに一層の恨みを抱かせることになるだろうと思い、殿様にも深くお案じなされていた。しかし、ほかによろしき御工風ごくふうもこれなく、機会を失えば逆に彼らに制せられるおそれもあり、やむを得ず」
とある。革命に対する政府側の立場と悩みは、どの国のどの時代でもよく似たものだろう。
この評定は、近藤と土方が、攻撃準備点である祇園実成院じつじょういん門前の町会所で結集していたときに、なおつづけられている。えんえんと評定され、しかるのち、
という京都守護職の結論が、下部検察庁である京都所司代、町奉行に通牒つうちょうされ、いずれも同意した。ちなみに、当時の京都所司代は、京都守護職松平容保の実弟松平定敬さあだあき(伊勢桑名藩主)で、兄弟で京都の治安に任じていたことになる。この両者の意思疎通そつうはじつに敏速であった。
が、評定が長すぎた。しかも藩兵動員が鈍重だったために、新選組が、会津藩と約束した攻撃開始時刻の夜八時が、二時間も遅延してしまっている。そのため、近藤は、公命を待たず、独断専行で池田屋を襲撃した。近藤、歳三には、政治的思慮などはない。あるのは剣のみである。
事件後、幕府から京都守護職に対し感状が下った。
「新選組の者どもさっそくまかいで、悪徒ども討ちとめ、召捕り、抜群の働き」
と、文中にある。同時に新選組に対し、褒賞ほうしょう金子きんすが下った。さらに幕閣から新選組局長をもって、
与力よりき上席」
とするむねの内示があった。しかし歳三は、
「よせ」
と、近藤に忠告した。
「与力なんざ、ばかげている」
たしかにばかげている。与力というのは直参じきさんにはちがいないが、元来の素姓すじょう地付じつき役人で一代限り。しかも将軍に拝謁はいえつの資格のない下士で、御家人並ごけにんなみである。その上、捕物専門職で、軍役の義務がなく、武家社会から「不浄役人」として軽蔑けいべつされた。軍人ではなく純警察官であると思えば、遠くない。
幕府は、新選組を警察官とみた。近藤にすれば、片腹痛かった樓ろう。
近藤は、志士をもって任じている。新選組の最終目標は、攘夷じょういにあるとしている。本心は別として、それは何度も内外に明示さいている。いわば、軍人の集団なのだ。
近藤と歳三の、事件後の最大の不愉快は、幕府から、警察官としてしかみられなかったことだろう。評価が、小さい。
「待つことだ」
と、歳三は言った。待てば、もっと大きく幕府が評価するようになる。あるいは、大名に取り立てられることも、夢ではない。
近藤は、大名を夢想していた。この夢想に「与力上席」の内示が水をかけたことになるが失望しなかった。
「おれの夢はね」
と、近藤は、歳三にだけ言った。
「攘夷大名になることさ」
わざわざ「攘夷」とつけたのは当時の志士気質かたぎからしたもので、大名になって外敵から日本を守りたいという野望が、池田屋ノ変での未曾有みぞう手柄てがら以来、近藤の胸にふくれあがりつつあった。
「よかろう」
歳三は言った。攘夷どうこうは別として、風雲に乗じて大名になり、あわよくば天下を取るというのが、古来武士のならいである。決して不正義ではない。
「私はあくまで助ける」
「たにむ」
近藤は、卑職の与力上席をことわり、依然として官設の浪人隊長の自由な身分に甘んじた。幕閣、守護職御用所では、みな近藤の無欲に感動した。
しかし近藤は無欲ではない。
池田屋ン変ののち、白馬を購入し、これに華麗なくらを置き、市中見廻りにはこれを用い、やりを持った隊列を従え、威風、大名のような印象を庶民に与えた。百姓あがりの浪人が大名まがいで市中を練るなどは、数年前の幕府体制の中では考えられなかったことであった。
守護職のある二条城に出仕する時も、馬上行列を組んで行った。
もはや、大名である。大名らしく演出して一種の印象を作り上げてゆくのが、近藤と歳三の、いかにも武州の芋道場の剣客あがりらしい料簡りょうけんのずぶとさであったといっていい。
2023/09/08
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