~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
京師の乱 Part-03
翌朝、夜明けを待って歳三は黒谷の会津本陣に馬を飛ばした。
公用方の外島機兵衛に会った。
「外島さん、かならず、戦になる」
とおどした。
外島は、土方が来たというので、重役にも連絡した。ほどなく家老の神保内蔵助じんぼうくらのすけも席に出た。一同ひどく鄭重ていちょうであった。池田屋事変このかた、新選組の待遇は飛躍的にあがっている。歳三に対しても一藩の重役を遇するような態度であった。
「土方先生、天竜寺を攻める場合、どういう軍略を用いるべきか、早々に軍議を開かねばなりませぬな」
と、会津家老神保内蔵助は言った。半ば、愛想のつもりであろう。
「左様。しかしこのたびは、池田屋のごとく白刃を抜き連ねて山門を越えるというだけでゃ事が足りますまい。壬生も、砲が要ります」
「一門、ござったはずだが」
「いや、不足でござる」
歳三は、説明した。砲をもって先ず土塀をやぶる。その崩れから隊士を突入せしめるつもりだが、一穴では、損害が多い。五門並べて五ヶ所を破壊して突入したい、ぜひ五門欲しい、と強談ごうだんした。
これには会津側も驚いた。それでは会津藩に砲がなくなるではないか。
「それも韮山砲が欲しい」
と言った。韮山砲は会津でも一門しか持っていなかった。
「無理です」
外島もあおくなっている。
歳三は、いま壬生にあるポンペン砲は、掛矢かけやくらいの力しかない、と言った。
「あれでは物の用に立ちません。このことはすでに、、芹沢鴨が試しています」
死んだ局長芹沢鴨が、かつて一条通の葭屋町よしやまちの富商大和屋庄兵衛方に金子を強要に行った時、先方がことわったので、屯営から大砲を持ち出した。その砲を大和屋の店先にえ、砲側で大焚火おおたきびをたき、それへ鉄玉をどんどんぶち込んでは真赤に焼き、それをめては土蔵にちかけた。
が、土蔵の厚壁は容易にくずれず、焼けもせず、さすがの芹沢も閉口した。歳三が、試したと言ったのはそのことであえる。
「しかし」
と、会津側は、自藩の火力が、薩摩藩(当時会津とは同盟同然の藩だった)などと比べると非常に劣勢である旨を説明し、
「土方先生、いかがでござろう。ゆくゆく幕閣にも掛け合い、出来るだけ貴意添うつもりでござるゆえ、とりあえず一門だけでご辛抱ねがえまいか」
と、神保内蔵助が言った。歳三はむろん吹っかけただけのことで、一門でいい。それも旧式でいい。要は、軍容に権威をつけるだけが目的である。
「まあ、辛抱しましょう」
恩に着せて、一門せしめた。旧式ながらこれで洋式砲は二門になる。二門といえば、五万石程度の小藩より軍容はたちまさっている。
すぐに壬生の屯営に戻ったが、問題の天竜寺の動きについては、かくべつの諜報はなかった。
その後数日は何事もなかった。
やがて、幕府の諜報よりも早く京都市中におそるべきうわさが流れた。長州藩の藩兵が数軍にわかれ、それぞれ周防すおうの商港三田尻を出帆し、東上してくるという。
えん(無実)禁闕きんけつで晴らさんがため」
というのが、出兵の理由である。要するに文久三年の政変で京都政界から長州勢力が一掃され、さらに池田屋事変で同藩の士多数が犬猫のように捕殺された、── その理由をただし藩の正論を明らかにするため、というのが表向きの理由のようだったが、要は軍事行動によって京都を制圧し、天子を長州に動座して攘夷討幕の実をあげようとするにあった。
2023/09/10
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