~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
長州軍乱入 Part-03
はたして、歳三の言葉どおりとなった。
伏見に屯集していた長州藩家老福原越後が行動を開始したのは、その日の夜半である。
最初、大仏だいぶつ街道をとって京に入ろうとしたが、勢いが攻勢的でなかった。温厚な福原越後はあくまでも出陣ではなく、禁裡きんりへ陳情にゆくという構えを捨てなかった。ただ仇敵きゅうてき会津中将松平容保だけは討つ。(この斬奸ざんかん状は、すでに長州藩士椿つばき弥十郎をして諸方に配ってある)
北上する福原の軍五百は、途中、藤ノ森で、幕軍先鋒の大垣藩(戸田采女正うねめのしょう氏彬うじあきら)がかためる関門にぶつかった。
馬上小具足に身をかためた福原越後は、
「長州藩福原越後、禁中に願いの筋あってまかり通る」
とよばわっただけで難なく通過した。
大垣藩兵は、黙然と見送った。この藩は戸田采女正が藩主だが病のために小原仁兵衛が代将になっている。小原は鉄心と号し当時すでに高名な兵略家で、とくに洋式砲術にあかるかった。
黙って通過させ、長州軍が筋違橋すじかいばし(関門から北へ四百メートル)を渡り切ろうとしたとき、にわかに銃兵を散開させ後ろから急射をあびせた。
たちまち銃戦がはじまった。
十九日の未明、四時前である。
「歳、はじまったらしい」
と、近藤はやみのむこうの銃声をあごでしゃくった。
「あの方角なら藤ノ森ですね」
と、耳のいい沖田総司が言った。
「藤ノ森なら、大垣藩だな。鉄砲の大垣といわれたほどの藩だから相当やるだろう」
近藤は、竹田観柳斎に作らせた長沼流の軍配をにぎって、落着いている。
(ちえっ、大将気取りもいいかげんにしたらどうだ)
歳三は、いただっていた。近藤はちかごろ鈍重になっている。すぐ歳三は下知して探索方の山崎烝を走らせた。同時に、会津隊の神保内蔵助の陣からも使者が走った。
山崎烝は馬上に身を伏せて走った。
藤ノ森のある大仏街道は竹田街道と並行し、その間をむすぶ道は田圃たんぼ道しかない。
山崎も放胆な男である。馬乗り提灯ぢょうちんもつけず闇の中を、藤ノ森の松明たいまつの群れと銃火をめあてにめくら滅法に走った。
大仏街道の戦場に到着すると、
「大垣藩の本陣はどこか。新選組山崎烝」
と、縦断の中で馬を乗りまわした。そのとき二、三弾、耳もとをかすったかと思うと、やりを持った兵が群がって来た。
── こいつ、新選組じゃと。
あっ、と山崎は急いで馬首を南にめぐらせた。長州兵のに飛び込んでしまったらしい。
馬上から、一人斬った。たてがみに顔をこすりつけて走った。長州・大垣が路上でほとんど錯綜さくそうしていて、両陣の区別がつかない。
「使者、使者」
山崎は必死に叫びながら走った。やがて藤ノ森明神の玉垣の前で、大垣藩の大将小原仁兵衛にお出会った。
「新選組使者」
山崎は馬からおりようとした。しかし小原は山崎を鞍へ押し上げて、
「すぐ援兵をたのむ。長州もなかなかやる」
あとでわかったことだが、この長州きっての弱兵部隊は、大垣の銃火と突撃で何度も崩れたったが、そのつど、同藩士の太田市之進が陣太刀をふるって叱咤しったし、
── 退くなっ、退くと斬るぞ。
とすさまじい指揮をしていたという。太田市之進は、嵯峨方面の隊長の一人だが、福原越後にわれて開戦のちょっと前に臨時隊長としてけつけたものだった。
やがて山崎が帰陣して報告すると、歳三は近藤を見た。
近藤はうなずいた。
すぐ馬上の人になった。
「筋違橋だ」
近藤はただそれだけを下知した。各組長はそれだけでわかるまでに呼吸があっていた。筋違橋の北詰めから攻めて、長州兵を夾撃きょうげきするのである。
会津隊も、見廻組も動きはじめた。
が、戦場に着いた時は、長州兵は自軍の死体を捨て、数丁南へ算をみだして退却していた。大将の福原越後自身、ほおを横から撃たれ、顔を血だらけにして伏見の長州屋敷まで戻ったが、ここでも大垣兵の追撃に耐えること出来ず、さらに南へ走って、山崎の陣営(家老益田越中)に駈け込んだ。
すでに朝になっている。
近藤、歳三ら新選組が敗敵を追って伏見に入った時は、彦根兵が放った火で、伏見の長州屋敷燃えていた。
(あとの祭りさ)
歳三は不機嫌ふきげんだった。いたずらに、大垣、彦根藩に名をなさしめている。
そのころ、京の西郊にある嵯峨天竜寺の長州軍八百は、家老国司信濃に率いられて京都に向かって侵入していた。
歳三の予想どおり、この部隊は、伏見のそれとは別国人のように勇猛だった。先鋒大将は来島又兵衛、監軍は久坂玄瑞で、隊には今日を限り命を捨てようとう諸藩の尊浪士が多数混じっている。
総大将国司信濃はわずか二十五歳の青年ながら、風折烏帽子かぜおりえぼし大和錦やまとにしき直垂/rb>ひたたれ萌黄威/rb>もえぎおどしよろい、背に 墨絵で雲竜うんりょうをえがいた白絽しろろの陣羽織、といっいかにも大藩の家のいでたちで、馬前に、
尊王攘夷
討会奸薩賊とうかいかんさつぞく
大旆たいはいをひるがえして押し進んだ。幕府は嵯峨方面の備えをほとんどしなかったために途中さえぎる者もなく洛中に入り、御所に向かって進み、国司の本隊がいまの護王神社の前に到着した時は未明四時ごろである。
2023/09/14
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