~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
伊東甲子太郎かしたろう Part-01
余談だが、筆者どもの高専受験当時、英文和訳の参考書に、通称「小野圭」という、おそらく二十数年にわたってベストセラーをつづけた受験用参考書があった。
著者は小野圭次郎氏で、三十代から五十代のひとにとってはなつかしい名であるはずだ。
小野氏は明治二年福島県の漢方医の子に生まれ、東京高師を出て英語教育界に入り、最後は松山高商教授をつとめ、昭和二十七年十一月、いまの皇太子の立太子式の翌日、八十四歳でくなった。
当時、各新聞に訃報ふほうが出た。受験生の世界で長年月親しまれていた人だけに、どの新聞も比較的くわしい訃報をかかげたが、しかしこのひとの岳父が新選組隊士鈴木すずき三樹三郎みきさぶろうであり、その義理の伯父が伊東甲子太郎であった、とまでは、むろん書かれなかった。
小野氏には奇特なこころざしがあった。「小野圭」の参考書で得た印税を、その父小野良意、それに鈴木三樹三郎、伊東甲子太郎の研究にそそぎ、昭和十五年、それらをまとめて非売品の書物を一冊、出している。いまでは古本の世界でも稀覯本郎きこうぼんに属する。
その伊東甲子太郎。
常陸ひたち志筑しずくの浪人の子である。すらりとしたいかにも才子肌の美丈夫である。
少年のころ、故郷を出て最初水戸で武芸、学問を学んだために、水戸的な尊王攘夷じょうい思想の洗礼を受けた。水戸藩尊攘党の頭目武田伊賀守(家老。のち耕雲斎と号し攘夷義勇軍をあげて死刑)とも親交があったと言うから、伊東の尊攘主義も相当過激なものだったに違いない。
伊東はいま江戸にいる。
深川佐賀町で道場を開いている。
門弟がざっと百人、道場としては大きい方である。
その伊東甲子太郎が、同志、弟子多数を連れて新選組に加盟してもかまわぬという意向を持っている、という話を歳三が聞いたのは、蛤御門ノ変の直後であった。
歳三は近藤から聞いた。
「本当か。──」
歳三も、その高名は聞いている。
「本当だ。こう、平助が、手紙でらせて来た」
と、ちょうど江戸に下っている助勤藤堂平助からの手紙を、歳三に見せた。
歳三はちらりと見て、
「はて、伊東甲子太郎」
と、疑わしそうに言った。
「たしかな男かね」
「たしかさ」
近藤は信じやすい。
それに、人手の欲しい時だ。池田屋ノ変から蛤御門ン変、大坂の長州屋敷制圧などの大仕事がこのところ相次いで起こったために、隊士が戦死、負傷、逃亡するなどで、六十人前後に減ってしまっていた。伊東が、門人多数をひきつれて加盟するとあれば、局長近藤はうれし泣きしてでも迎えたい心境であった。
「どうかなあ」
歳三は、近藤の大きなあご・・を見つめながら言った。
「歳、気に入らないのかね」
「こいつ、学者だろう」
「結構ではないか。新選組は剣客ばかりの集まりで、四書五経、兵書に眼があり、文章の一つも書けるほどの者といえば、山南敬助、武田観柳斎、尾形俊太郎ぐらいのものだ」
「みな、ろくなやつじゃねえよ」
しっぽがどこについているのか、根性がどうすわっているのか、歳三にとって見当のつかない連中である。学問はいい。が、自分の環境に対して思考力がありすぎるという人間ほど、新選組のような勁烈けいれつな組織にとって、不要なものはない。そう信じている。歳三はあくまでも、鉄のような軍事組織に新選組を仕立てたいと思っていた。
2023/09/16
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