~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
伊東甲子太郎かしたろう Part-02
が、近藤はちがう。学者好きである。武田観柳斎のような、たれがどう見ても腑抜ふぬ
近藤にはm対外活動がある。いまや、京都における幕権の代務者である京都守護職松平容保とさえ、直談じいだんしている。
諸藩の重役とも、対等以上の立場で話をしている。席上、名だたる論客どもをむこうにまわして、時事、政務を論じている。近藤はいまや一介の剣客ではなく、京都における重要な政客のひとりであった。
それには、身辺に、知的用心棒が要る。武田や尾形程度では、もう役不足であった。
そこへ、降ってわいたように飛び込んで来た話が、伊東甲子太郎の一件であった。
近藤がとびついたのも、無理はない。
「第一、伊東甲子太郎といえば、北辰一刀流だろう」
「ふむ、天下の大流だ」
天然無心流など芋流儀とはちがう。
「しかし」
歳三は気に食わない。
北辰一刀流(流祖千葉周作、道場は江戸神田お玉ケ池)といえば、水戸徳川家が最大の保護者で、自然、この門から多数の水戸学派的な尊王攘夷論者が出た。ちょっと指折っても、海保帆平かいほはんぺい、千葉重太郎、清河八郎、坂本竜馬といった名前が、歳三の頭にうかぶ。
彼らは、反幕的である。倒幕論者でさえある。いわば、長州式の尊王攘夷主義者とすこしもかわらないではないか。
── 伊東はたしかかね。
と歳三が言ったのは、ここである。
── たしかさ。
と近藤が言ったのは、伊東の学問、武芸のことだ。腕は立つ、すごいほど立つ。
伊東甲子太郎が、はじめ水戸で修めた流儀は神道無念流であったが、江戸に出てからはもっぱら、深川佐賀町の伊東精一について北辰一刀流を学んだ。たちまち奥義おうぎ に達し、師範代をゆるされ、精一の娘のうめ子(のち離縁)を妻にして婿入むこいりし、伊東姓を継ぎ。精一病死後、道場をも継いだ。
道場を継いでからは、単に剣術のみを教えず、
── 文武教授。
の看板をかかげて、あわせて水戸学を講述したから、門下に、多数の志士が集まった。
伊東はさらに、江戸内府の国士的な学者とさかんに交遊したから、尊攘論者のなかで名が高くなり、諸国の浪士で江戸へ来る者は、
「伊東先生の高説を聞かねば」
と、しきりにその門に来遊する。
2023/09/16
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