~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
甲子太郎、京へ Part-02
「ほほう」
伊東は、はじめのうちは半信半疑だった。
いかに幕権衰えたりとはいえ、一介の浪人隊長が、将軍に拝謁はいえつ出来る筈がないではないか。
「おどろきました。近藤先生が将軍に拝謁許されたとは」
「いや」
近藤はあわてた。
「将軍にではない。御老中松前伊豆守殿をはじめ諸閣老を残らず歴訪し、京都の情勢がいかに切迫しているかを説き、将軍家の御上洛が、いまや焦眉しょうびの急であえることを説いたわけでござる」
「なるほど」
それだけでもたいしたものではないか。幕閣に対し政治的助言をするのは、御親藩、譜代大名のやることである。井伊大老のころ、外様とざま大名が幕政にくちばしれたというだけで、何人かの大名が罪に服したことがあった。それを近藤は浪人の身をもって、幕閣に工作をしたとおいうのである。(むろん近藤は、老中に会うにあたって、会津藩から特別の工作はしてもらってはいたが)
(それにしても幕威も衰えたものだ)
と、伊東は思わざるを得ない。
「それで、幕府の意向はどうでしたか」
「伊東先生」
近藤は、声をおとした。
「かまえて、他言たごんなさるまいな」
「念を押されるまでもありません」
伊東は、秀麗な顔でうなずいた。
「されば貴殿を同志として打ち明ける。幕閣極秘の事項と思っていただきたい。もしこれが、長州はむろんのこと、薩摩、因州、筑前、土佐、といった、あわよくば徳川に代わって天下の主権を握ろうとする西国大名にれれば、大事にいたる」
それほどの秘密を、近藤は幕府の老中から明かされているる。それを、近藤は伊東甲子太郎に誇示しようとしたのか、どうか。
「伊東君」
同志らしく、そういう呼び方に変わった。
「幕府の御金蔵には、もはや将軍が長州征伐のために西上する金がないのです」
「金が」
「そう。・・・ない」
うなずいた。
「幕府に?──」
「ないのだ金が。将軍上洛となればおびただしいお供が要る。お供に渡るお手当がもはやない。お手当だけではない。鉄砲も要る。馬も要る。兵糧ひょうろう荷駄にだも用意せねばなるまい。硝煙も要る。それらを運ぶ軍船も要るだろう。伊東君、その金が、ない」
近藤はまるで自分が老中のような、悲痛な顔をした。
余談だが、このころ、幕府は極秘にフランスとの間で、長州征伐の軍費と幕軍の様式化の費用の借款しゃっかんを交渉していた(曲折をへて、不調に終わったが)。それほど、幕府は窮迫していた。
「しかし」
と、伊東は、神妙に言った。
「江戸には、徳川家が三百年養いきたった旗本御家人という者が居る。将軍が東照権現ごんげん(家康)以来の御馬印をたてて西上するとなれば、彼ら直参は、家財を売ってでも馬を買い、鉄砲をそろえ、道中のお手当なども自ら調達し、身命をなげうって三百年の恩を報ずるはずではないですか」
「ところがそれが」
近藤は、不快そうに言った。
「伊東君も、うわさを耳にしておられるはずです。御旗本のほとんどは、家計の窮乏を理由として従軍を望んでおらぬ」
伊東も、聞いていっる。むろん幕臣のすべてではないが、その大半は、将軍出馬による長州征伐には反対であった。彼らのうちには、公然と江戸城中で、
── たかが三十六万石の西陬せいすうの一大名を征伐するのに、将軍が出かける必要がどこにある。
と、放言する者さえ居た。
要は、将軍が出かければ旗本御家人がその士卒として従軍せねばならぬ。家計の打撃というだけでなく、江戸の遊情な生活をすてて野戦に身をさらすなどという野暮は、三百年、御直参、殿様、よ呼ばれて来た彼らにとって、考えられぬことであった。
「旗本八万騎というが」
と、近藤は言った。
藁人形わらにんぎょうにひとしい。伊東君、将軍は勅命によって御所をまもり、長州を鎮圧し、さらに外夷から国家を守ろうとするのですぞ。その将軍を、何者が守るのか。旗本は戦を嫌っている。結局、将軍を護り、王城を護るのは、新選組のほかはない」
近藤は、ぐっと杯を干し、伊東に差した。
伊東は、受けた。横あいから尾形俊太郎が、それに酒を満たした。
「伊東君、義盟を誓いましょう」
「いかにも」
伊東は、それを静かに干した。心中、なにを思っていたか、わからない。
2023/09/19
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