~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
甲子太郎、京へ Part-03
近藤に会った翌日、伊東は、深川佐賀町の道場に、おもだつ門人、同志を集めた。
七人。
いずれも、佐幕主義者ではない。
あわよくば、旗を京にて、天子を擁して尊王攘夷の実をあげようとという連中である。
まず、伊東の実弟の鈴木三樹三郎(のち薩摩藩に身を寄せ、近藤を狙撃そげき。維新後弾正だんじょう小巡察。大正八年、八十三歳で死去)
伊東の古い同志では、
篠原泰之進(同右。明治四十四年、八十四歳で死去)
加納道之助(鵰雄わしお、のち薩摩藩にる)
服部武雄(維新前、闘志死)
佐野七五三之助しめのすけ(維新前、切腹)
伊東の門人としては、
中西登(のち薩摩藩に拠る)
内海二郎(同右)
この中でも、剣術精妙といわれたのは武州出身の服部武雄、久留米脱藩の篠原泰之進で、加納、佐野なども、新選組の現幹部に劣らない。
伊東は、この七人に対しては近藤との会談をつぶさに語り、さらにはらの底まで打ち明けた。
── あくまでも、合流であ。やがて主導権を握る。それをもって倒幕の義軍たらしめたい。諸君の御所存は如何いかん
「もとより」
と、伊東は言った。
虎穴こけつに入るのだ。しかも虎児をるだけではない。猛虎を追い出して虎穴を奪う。拙者に命を預けていただきた」
み、賛同した。
しかしただ一人、一座の最年長である篠原泰之進だけは、この伊東のあまりにも才気走っ奇計に、多少のあぶなつかしさ覚え、
「大丈夫かね」
愛嬌あいきょうのある久留米なまりで言った。篠原は、先、おまここに同席している加納、服、佐野らと横浜の外国公館を焼打ちしようとしたほどの「尊攘激徒」だが、平素はおだやかな庄屋しょうや大旦那おおだんなといった風があ。剣のほかに、柔術ができた。
「大丈夫かね、とは、どういう意味です」
「私はね、芝居が下手ですよ。異心を抱いて新選組に入りはして、三日とごまかしきれるような男ではなか」
「それで結構」
伊東は、才をたのんでいる。
「芝居は、私がやります。諸君はただ、近藤、土方の命ずるまま、だまって隊務についていてもらえばいい。いざ、というときに蜂起ほうきする」
「そいつは楽だ」
篠原は、笑いながら、
「しかし、座長ざがしらがさ」
「私のことですか」
「そうです。憎まれ口をいうようだが、才人すぎて、かえって花道から転げ落ちるようなことになってはつまりませんよ」
「篠原君」
「いや、聞いて下さい。新選組といっても馬鹿や土偶のぼうばかりが集まっているわけじゃない。芝居の観巧者みごうしゃがいる。聞けば土方歳三」
「いや、先刻調べている。土方は無学な男だ。とるに足りない」
「どうかなあ」
「篠原君、君に似合わず、おくされたようですな」
「なんの」
篠原は、笑った
「わたしゃ。こうと決まった以上、命と思案は利口なああた・・・にお任せしてある。ただ結盟に当たって、ひとことだけ、不安を申したまでです」
「不安。新選組は、藤堂君に聞けば、たかが烏合うごうの衆ですよ。篠原君はおそれすぎる」
「私の怖れているのは、新選組の近藤や土方ではない」
「では、なんです」
ああた・・・の才気ですよ。いや、才気を恃みすぎるところかな。見まわしたところ、この一座は大根役者ばかりで、千両役者といえばああたお一人だ。巧者すぎて、浮きあがらんようにしてもらいたい」
「篠原君」
「いや、これで話はしまい。あとはああた・・・に命をあずけた。── 酒だ、服部君」
「なんです」
「みんなで酒を買おう。江戸の酒の飲みおさめに、今夜はつぶれるまで私は飲む」
その夜、皆が帰ったあと、伊東は故郷の常州三村に一人住んでいる老婆のこよ・・てて京にのぼるむねの手紙を書き、妻うめ・・にも結盟上洛のいきさつを話し、その後数日して深川佐賀町の道場をたたみ、家族を三田台町の借家に移している。
前にも述べた通り、伊東はもともと大蔵おおくらという名であったのを、江戸を去るに当たって、甲子太郎と改名している。伊東なりに、よほどの覚悟があったのであろう。
伊東がよほどの覚悟を決めて京へ上ったということについては、他にも挿話そうわがある。妻うめ・・というのは、その手紙などの文章からみても相当の教養のあった婦人らしく思えるが、やはり、京にいおける夫の身を案じすぎたのであろう。伊東へはは様大病、と偽報し、おどろいて早駕籠はやかごで江戸に帰って来た伊東に、
── 実は母上のご病気とは偽りでございます。あまりにお身の上が気になりますから、もう国事に奔走するのはして頂きたいと思い、手紙をさしあげました。(この項、小野圭二郎著「伯父・伊東甲子太郎」と同文)
この時の、うめ・・に対する伊東の心事はよくわからない。ただ「非常に腹を立」て、
── なんじ如きは自己のみを知って、国家の重きを知らぬ者だ。
と離別してしまっている。幕末の第一級志士には意外なほ愛妻家が多いが、国事を理由に妻を離別したのは伊東甲子太郎だけであろう(余談だが、老母こよは、甲子太郎の絵像を床の間にかけて朝夕、その健康を祈っている、というふうの人であった。明治二十五年、常州石岡町の次男三樹三郎の家で死去、八十二歳。時世は「万世よろづよのつきぬ御代おんよ名残なごりかな」)
2023/09/20
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