~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
憎まれ歳三 Part-01
新選組総長そうちょう山南敬助が、近藤宛ての書置きを残して脱走したのは、慶応元年二月二十一日の未明のことである。
(山南が?)
と、歳三は、まだ夜がつづいている真暗な自室の中で、その報告を聞いた。報告者は、廊下にいる。監査の山崎すすむである。
「山崎君、たしかなことかね」
「さあ、置き手紙があり、お部屋には大小、荷物がなく、ご当人はいらしゃいませぬ。それでご判断をねがいます」
「その置き手紙を見せて貰おう」
歳三は、付け木に火をつけ、その火を行燈あんどんに移そうとしながら、何気なく言った。が、山崎は、入って来ず、障子に手もかけない。
「どうした」
「おや、申し遅れましたが、あて名は、近藤先生ということにんっております」
「ああ、そうか」
ものにされている。が、歳三は、つとめて冷静に言った。
「山崎君、近藤さんの休息所へ使いは行ったでしょうな」
「まだです」
「なぜ、早く行かない」
「私が、只今から参ります。まず土方先生に、と思ったものですから」
(利口な男だ)
順を乱さない。副長職である歳三の職務的な感受をよく心得ていた。組織はつねに山崎のような男を要求している、と歳三は思っている。
歳三が着替きがえをおわったころ、あけの鐘が鳴り、廊下の雨戸がつぎつぎに繰られて行った。が、まだ雨戸の外は暗く、夜は明け切ってはいない。
(寒い。──)
二月にしては、寒すぎる朝である。歳三は、近藤の休息所へ行くたひとり、門外へ出た。故郷の武州南多摩のように霜柱こそ立たないが、骨が凍るように寒い。
いつの間にか、沖田総司が、歳三の横に寄って来ている。
「大変ですな」
と、沖田は低い声で言った。この明るすぎる若者の声が、めずらしく沈んでいる。
沖田は、江戸の芋道場時代から、山南と仲が良かった。山南は年は三十二。沖田より十歳の年長で、沖田を弟のように可愛かわいがっていた。
「いいひとだったですがねえ」
と、歳三の横顔を見た。
黙っている。
沖田は、歳三がつら憎くなった。
(山南さんは、このひとが憎いあまり隊法を犯して脱走したのだ)
とみている。沖田だけではない。局中のたれもが、そうみるはずである。
一方は総長。
このほうは、副長。
身分は同格である。だが、隊士の直接指揮権は副長が握り、総長は、局長近藤の相談役、というほどの職務になっていた。そういう組織にしたのは、歳三である。山南敬助は、たなあげされていた。というより、この仙台人は、棚ざらしになっていた。
(山南さんは、この人を憎みきっていた)
だけではない。
山南は、思想が違う。出が、北辰一刀流である。この流儀は、千葉周作以来、水戸徳川家と縁が深く、千葉一門の多くは水戸藩の上士に召し抱えられており、門弟は、水戸藩士が多い。
自然、道場は、水戸学的色彩が濃く、門生たちは、剣を学ぶと共に、水戸式の理屈っぽい尊王攘夷主義の洗礼を受けた。この門から、行動的な尊王攘夷主義者がどれだけ出たか数えることが出来ない。沖田が知っているだけでも、死んだ清河八郎、それに、新たに加盟した伊東甲子太郎がいる。
(山南さんも、根は、その派の人なのだ)
沖田は、次第に明るくなってゆく坊城通を歩きながら、思った。
2023/09/24
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