~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
憎まれ歳三 Part-04
それを聞いて、沖田は、ほっとした。山南が、例の伊東甲子太郎とあれほど昵懇じっこんになりその説に共鳴しながら、伊東に同調して党中党をたてることをしなかった。── 江戸へ帰る。山南はただ、帰って行くのであろう。そこに、どういう政治的なにおいもない。
(やはり、好漢なのだなあ)
沖田は、近藤邸の庭をぼんやり見ながら、あの仙台なまりの武士のことを思った。
が、そのとき、近藤の表情が動いた。くちびるが、なにか言おうとした。が、それを引き取って、
「総司」
と言ったのは、歳三のつめたい声であった。
「お前がいい。山南君と親しかった。いますぐ馬で追えば、大津あたりで追っつくだろう」
「── 討手?」
自分が。という表情を、沖田はした。きっと、たじろぐ色が、浮かんだのに違いない。腕は沖田がすぐれている。その意味で、ひるんだのではない。
「いやか」
歳三は、じっと沖田を見つめた。
「いいえ」
すこし、微笑わらった。それが、急に明るい笑顔になった。体のなかのどこかで、山南への感傷を断ち切ったのだろう。
沖田は、屯所とんしょけ戻った。
馬に乗った。
駈けた。
寒い。口鼻から入る込んで来る冷気が、くらの上で「、沖田をきこませた。沖田の咳をのせて、馬は三条通を東へ駈けた。粟田口あわたぐちのあたりで、手甲てっこうを、口へあてた。布が、れた。わずかに、血がにじんでいる。
(自分も、永くはないのではないか)
そう思うと、右手に過ぎて行く華頂山のみどりがふしぎなほどの鮮やかさで眼にうつった。
大津の宿場はずれまで来た時、一軒の茶店の中から、
「沖田君」
と呼ぶ声がした。
山南である。葛湯くずゆを入れた大きな湯呑ゆのみをだいじそうに両手にかかえている。
沖田は、鞍から跳び下りた。
「山南先生。屯所までお供します」
「意外だったな、追手が君だったとは」
山南は、例の人懐ひとなつ っこい眼で、沖田を見た。
「君なら、仕方がない。土方君の頤使いしのある監察どもなら、生きては京に帰さないところだったが」
「かまいません。山南先生が、どうしても江戸へ帰りたいとおっしゃるなら、刀をお抜き下さい。私はここで斬られます」
「どうして、斬られるのは私の方だよ。私も、君の腕にはかなわないだろう」
日はまだ高い。いまから京へ帰れないことはなかったが、沖田は、山南に急がすにしのびなかった。明朝、京に戻ることとして、その夜は大津に宿をとった。
二人は、床を並べて、寝た。
「寒い夜だ」
と、山南は、言った。
沖田は黙っている。なぜこの運の悪い仙台人は自分に追いつかれてしまったのかと腹立たしかった。
第一、山南という男のみごとさは、隊を退くにあたって行方ゆくえをくらまそうとはせず、置き手紙にも堂々と、── 江戸へ帰る、と明記してある。だけではなく、宿場はずれの茶店から、追跡者で会える自分の名を、彼の方から呼んだ。山南らしい、すずやかな振舞である。
その夜、山南は、隊に対する不満も、江戸へ帰ってなにをするつもりだったか、ということも、なにも話さなかった。
故郷くにの話をした。それも愚にもつかぬ話しばかりで、仙台では真夏、さしわたし一寸ぽどのひょう・・・が降るとか、御徒士おかちの内職は山芋掘りがいちばんいい金になるとか、そういう話しばかりだった。
「山南先生も、山芋を掘られたのですか」
「ああ、子供の時はね。いや、あれは、おもに子供の仕事だったな。おもしろくもある。まだ山の芋が幼い季節に山に入ってそのはえている場所をみつけると、そこへ麦をまいておくのさ。麦がのびるころには、山の芋も土中で大きくなっている。麦を目じるしに、探すというわかだよ」
「── 江戸では」
なにをするつもりだったのか、と、沖田が問いかけると、山南はおだやかに、
「江戸の話はよそう。私の一生には、もうなくなってしまった土地だ」
と、言った。おそらく、江戸に帰ったところで、どれほどのもくいろみもなかったに相違ない。
その翌々日の慶応元年二月二十三日、山南敬助は、壬生屯営の坊城通に面した前川屋敷の一室で、しずかに、作法どおりの切腹をとげた。介錯かいしゃくは、沖田総司である。
山南には、女が居た。島原の明里あけさとという遊女で、事情を知っていた隊の永倉新八が、山南の変事を報せてやった。女は切腹の前日、坊城通に面した長屋門のそばに立った。
── 山南さん。
と、女は泣きながら、出窓に手をかけた。その出窓の部屋に山南が監禁されている。
山南は、格子こうしをつかんでいる女の指を、室内なかからにぎった。
しばらくそうしていたのを、門のかげから、偶然、沖田は見た。女も顔は、見えなかった。ただ黒塗の日和下駄ひよりげたと白い足袋が、沖田の眼に残った。
沖田は、すぐ門内にかくれた。
(足のうらが、小さかったな)
山南の首をおとしたあとも、そんなことだけが、妙に思い出された。
2023/09/26
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