~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
四条橋の雲 Part-01
慶応元年五月。
維新史の峠といっていい。
将軍家茂が、第二次長州征伐を総攬そうらん するために京に入った。家康以来の金扇の馬標うまじるしが二条城に入った時、京の市民も、
「幕威、大いにあがる」
と、うわさした。
が、内実、幕府には、長州を征伐するだけの軍事力も経済力もなくなっている。
それだけではない。すでに三家老の首を切ってまでして恭順している長州を、もう一度討伐するだけの名分が、幕府になかった。それをこじつけてまでして、討伐の軍を起こした。これが幕府の墓穴を掘った。
長州征伐については、徳川家の親藩、家門、譜代、外様のほとんどが反対した。ただひとり強力に提案したのは、京を鎮護している会津藩であり、その支配下の新選組である、というより、近藤個人といっていい。
「このさい、防長二州に兵を入れて覆滅し、毛利家三十六万石をとりあげて、幕府の禍根を断つのが御上策」
と、近藤は、慶応元年正月前後から、会津藩家老としきりに会合し、力説していた。
この単純な征伐論が、幕府の命取りになってゆくということを、近藤は考えもしない。頭脳的には、。一介の軍人にすぎなかったからだ。
「御高説」
と、会津藩側も異存はなかった。
会津藩家老と近藤勇らの、いわゆる会津論議というものは、ずいぶん乱暴なもので、まわりまわって、尊王主義の越前福井松平慶永よしながの耳にまで入った。
慶永自身の手記を口語に訳すると、
第二次長州征伐については、幕府は大いに自信があるらしい。長州はタマゴをつぶすようなものだ、と幕閣の要人はいっている。ところで、風評では、天下がかくのごとく動乱するのは、以下の諸藩があるためであると説をなす者がある。つまり、薩摩、土佐、尾張徳川、越前松平(慶永自身)、肥後細川、肥前鍋島なべしま、筑前黒田、因州池田の西国八藩であるという。「これら諸藩は、帝王のみに勤王を唱え、可悪にくむべきやつらなり。長州征伐万々歳ののちは、おいおい、これら諸藩を討滅する」という。
ある人、余に、「貴殿は表むき、幕府の待遇が厚いが、内実はご油断なりませぬ」と忠告してくれた。どうも、事実らしい。
右は、近藤の意見と、同内容である。近藤が志士気取りで会津藩要人と天下国家を論じたことが、幕閣の意見になったかとも思われる。近藤自身しきりと老中へ入説にゅうぜいしていたし、会津藩からも江戸表へさまざまの意見が、送られていた。
当時の幕府の要人というのは、幕臣の勝海舟でさえサジを投げ出したほどの愚物ぞろいだから、京都における幕府探題である会津藩、新選組の意見、情勢分析とあれば、役目がら、最重要の参考資料とそいたであろう。
その上、幕臣が、にわかに強腰になったことについては、フランス皇帝ナポレオン三世の後援の約束が背景にあり、これについてフランス公使レオン・ロッシュが、しきりと幕府に入説しおている。が、そのフランス皇帝自身が、それから数年後に没落する運命にある男だとは、幕府の要人のたれもが、推測する材料ももっていない。
将軍入洛じゅらくのとき、近藤は大喜びで、歳三をつかまえて言っている。
「これからが、面白くなる」
会津藩は将軍を擁し、新選組は会津藩の中核となり、声望大いにあがった。
「もはや、会津藩の天下である」という者もあり、「会津に百万石の御加封か」という出所不明のうわさもたった。
「喜びも、ほどほどにしろ」
と、歳三は、監察が、三条大橋で剥がして来た、落首らくしゅを見せた。
  彼奴あいつ(会津)離縁いなして よい嬶貰かかもろ
    ひさ(長州)さかずき してみたい
とある。
「うまいもんだ」
俳諧師はいかいしらしく、歳三は首をひねった。
「ばか、感心するやつがあるけえ」
「いやいや、こうはスラスラと言葉がならばねえもんだ」
くすくす笑っている。
「やぶってしまえ」
と、言った。おおよそ、洒落しゃれ諧謔かいぎゃくのたぐいの嫌いな男である。
「間者のしわざだろう」
「それだけでもあるまい」
諸大名の中には、長州同情派がふえつつあり、京の庶民も、惨敗ざんぱい の長州に対する同情の色が濃かった。もっとも、長州藩が京で盛んであったころ、長州人気をあおるために市中でずいぶん派手な金を使った、というせいもあるが。
2023/09/28
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