~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
四条橋の雲 Part-02
近藤は、あす、将軍が入洛するという夜、屯営に泊まり、夜更けまで起きて、愛読の書「日本外史」を朗々とんだ。
「いい声だ」
と、歳三も感心した。近藤はところどころ読み間違ったり、みがくだらず、行き詰まっては咳払いをしたるしたが、よくとおるみごとな声である。
近藤は、建武の中興にくだりを、ほとんど涙をにじませて誦みすすんでいた。
後醍醐ごだいご天皇が、鎌倉の北条氏をほろぼし、楠木正成を先駆として都に帰るくだりである。
近藤は、みずからを、楠正成に擬して考えている。後醍醐天皇は、将軍家茂というわけであろう。草莽そうもうの正成、忠を致さずんば、流浪るろうの帝、なにをもってか頼らん、というような心境であった。
「歳、おれが楠木正成だとすれば、お前は恩智左近おんじのさこんという役どころか」
「まあ、そうきあな」
歳三は、相槌を打ってやった。
「あの連中も、河内の金剛山の郷士か山伏か山賊か、とにかく名も知れねえ連中だったそうだから、われわれと素姓はあまりかわらねえ」
「素姓のことをいっているのではない。役どころだ」
「おれはどっちでもいいんだ、とにかく、新編成の役どころが出来たから、伊東君も呼んで相談してもらいたい」
「おお」
近藤は、伊東甲子太郎を呼んだ。
伊東が、白絽しろろに紋を黒く染めた瀟洒しょうしゃな夏羽織りをはおって入って来た。相変わらず、役者のようにいい男である。
「新編成ができましたか」
と、すわった。
(妙な野郎だ)
歳三には、伊東のような男がわからない。
この男は、入隊後、隊務などはみず、毎日外出しては、薩摩、越前、土佐など、対幕府的には、批判的な立場にある藩の連中と会っている(薩摩藩は、まだ、この当時、表面上は、長州を憎むのあまり会津と友藩行動をとっていたが、かといって純粋な佐幕主義などではなく、いつ単独行動に出るかわからない藩として、幕府でもずいぶんと機嫌きげん をとり、かつ警戒していた)
それに、
── 諸国、とくに九州方面を遊説ゆうぜいしてまわりたい。
と、近藤に申し出ていた。つまり、西国の情勢を探るとともに、いわゆる志士たちと交わり、国事を論じ、あわせて新選組の立場をも説明してまわりたい、というのである。
── 結構なことです。
と、近藤は、喜んでいた。歳三のみるところ、悲しいかな、近藤はこういう知識人や、そいうった知識人的活動が、好きでありすぎた。げんに近藤自身、ちかごろはいっぱしの論客といった様子で、京における雄藩の公用方と、しきりに祇園ぎおんで会合している。
しかも席上、もっとも多弁にしゃべるのは近藤であるという話も、歳三は聞いていた。
── 伊東は気をつけろよ。
と歳三は何度も近藤にいうのだが、近藤はむしろそういう歳三をこそ、義兄弟をちかった身ながら、不服に思っていた。
── これからの新選組幹部は、国士でなければならぬ。議論あれば堂々と天下に公開し、将軍、老中にも開陳して、動かすだけの器量を持ってもらわねば困る。
── そうかねえ。
歳三は、不服だった。歳三のみるところ、新選組はしょせんは、剣客の集団である。それを今後いよいよ大きくして幕府最大の軍事組織するのが目的であって、政治結社なるのが目的ではあるまい。幕府はむしろ、そういう新選組を迷惑に思うだろう。
── そうかねえ。
仏頂面ぶっちょうづらをしてみせるのだが、近藤はむしろそんな歳三が不満になってきている。奔走家としての自分の片腕には、歳三はとてもなれない男である。
(こいつに、学問があったらなあ)
歳三をみる眼が、ときに冷たくなっている。
そのぶんだけ、伊東甲子太郎に、近藤は傾斜した。
── 伊東さん。
と敬意を込めて呼ぶ、ときに、
── 伊東先生。
と呼んだ。歳、と呼び捨てにするのと、たいへんな違いである。
2023/09/29
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