~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
堀 川 の 雨 Part-01
その日、歳三は、小者一人を連れて、午後から黒谷くろだにの会津藩本陣に出かけた。
辞去したときは、すでに夜になっている。
まずいことに、雨が降っていた。
玄関まで出てわざわざ見送ってくれた会津藩家老田中土佐、公用方外島機兵衛のふたりが口々に、
「土方先生、今夜は手前方に泊まられて、明朝お帰りになってはいかが」
とすすめた。
当時、新選組では花昌町かしょうちょう(現在町名なし。さめ七条堀川のあたり。当時、不動堂村ともいった)屯営とんえいを新築して、一同そこへ移っていた。洛東らくとうの黒谷から、その花昌町新屯営まで、京の市中、ざっと二里はある。
外島機兵衛らが心配したのは、この雨、この暗さで、はたして事無く屯営まで帰れるかどうかということだ。
それに、土方は、護衛の隊士も連れず、馬にも乗らず、来ているである。
「そうなさい」
家老田中土佐は玄関の式台から夜の雨の模様を覗きながら、
「ぜひ」
と、歳三のそでをとらんばかりにして言った。
外島機兵衛も、
「先刻も話しに出ました通り、防長二州に割拠した長州藩は、おびただしく密偵みっていを市中に送り込んでいるといいます。それに、ちかごろ土州藩の脱藩浪士が、長州と気息を通じて、さかんに市中に出没している。いかに土方先生豪強といえども、万が一ということがある」
「まあ、そうですな」
歳三は、気のない返事をして、くるっと背を向け、小者が揃えた高下駄に足を差し入れた。
「なんなら、当家の人数に送らせましょうか」
と田中土佐が言った。
「いや」
歳三は不愛想に言った。
「いいでしょう」
そのまま、出て行った。
── 変った男だ。
と、あとで、家老の田中土佐が、ちょっと不快そうに言った。
新選組では、近藤が、伊東甲子太郎らを連れて十一月半ばから広島へ下向したきり戻って来ない。
その間、歳三が、局長代理である。なにかと会津藩に出向くことが多くなっていた。
いつも、あの調子でやって来る。近藤のように、馬上、隊士を率いてやって来るというようなことをしない。
「よほど、腕に自信があるのかね」
「さあ、別に理由もないでしょう。独りきりで歩きたい、というのがあの男の性分でしょうな。その点、武骨なわりに派手好きな近藤とはちがうようです」
と、古いなじみの外島機兵衛が、笑いながら言った。
外島は、どちらかといえば周旋好き(政治好き)の近藤よりも、実力を内に秘めて沈黙しているといった恰好かっこうの土方の方を、好んでいる。
「それに」
と田中土佐は、歳三の不愛想さに好意をもっていない。
「あの男、女もないそうだな」
田中土佐にしてみれば、近藤が妾宅しょうたくを二軒持ち、相当派手に女を囲っているという噂から、ふと対比してそう思ったのである。
「なさそうですな」
「あれはあれで、よくみると苦味走ったいい男なのだが、京の女はああいう男を好まないのかね」
「いや、島原木津屋の抱えで、東雲しののめ太夫だゆうというのがいたでしょう」
「ああ、聞いている。ずいぶんと美形だったそうだな。それとあの男は良かったのか」
「いや。──」
外島幾兵衛は、表現にとまどったような顔をした。ああいう男女関係をどう言っていいか、うまく言えなかったのである。
2023/10/04
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