~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
堀 川 の 雨 Part-03
「それで、どうした」
謹直な田中土佐が、聞いた。
「その後、近藤とともにあの男は、二、三度木津屋に登楼あがって、東雲大夫を敵娼にしたのですが、おの態度たるや、まったく初会のときと判で押したように同じだったらしい」
「床入り後のやさしさも?」
「、まあ、そうです」
その後、東雲大夫は、京の両替商人から落籍ひかれることになった。そのとき、しきりと使いを屯所に出して、
── 最後に会いに来てほしい。
と、と頼んだが、歳三は、(落籍されるような女にっても仕方がないさ)とついに行かず、どうしたわけか、それっきり、島原には足を踏み入れなくなったという。
東雲大夫はそれを恨みに思い、恨みのあまり、自分の小指の肉をみちぎって、大騒ぎになった。
それでも歳三は行かなかった。
「情のこわい男だ。おそらくあの男は、東雲大夫が、好きだったのではあるまいか。だから行かなかったのだろう」
「好きなら、普通そんな場合、かきを破ってでも逢いに行くのが人情でしょう」
「それはそうだな」
「見当のつかぬ男ですよ。とにかく。──」
そういって外島機兵衛は笑ったが、しかし外島は歳三が東雲大夫と初会した前日、この男に身に何が起こったかを知らない。あれは文久三年九月二十一日のことであった。歳三は、麩屋町ふやまちの露地奥の家で、今は九条家にしている府中猿渡さるわたり家の息女佐絵と武州で一別以来久しぶりで逢い合った。その借家の古畳の上で、、例によって歳三流の不愛想な触れ方で佐絵と通じたが、そのとき、ありありと(佐絵は変った)と思った。佐絵は、たしかに変った。情夫おとこがいる、と思わざるを得なかった。
変心は咎めなかった。その資格もなかった。武州当時、歳三は佐絵になんの約束もせず、むろん情人らしいどういう言葉もかけてやらず、ただ偶然の縁で体のつながりを結んだだけのことであった、と言える。佐絵からみても、これは同じだろう。この猿渡家の出戻り娘はただ一時のなぐさみで、どこの所在の者とも知れぬ近在のあぶれ者じみた若者と体のつながりをもったにすぎない。京に来れば京に来田で、佐絵は佐絵の人生をもった。その人生の中に、長州藩士米沢藤次が入って来た。藤次、佐幕は公卿だった九条家に出入りしていた男で、佐絵と出来た。佐絵を通じて、幕府方の情報を得ようとし、佐絵は、当然、情夫のために働いた。
── 土方を知っている。
と、佐絵は米沢に洩らした。「斬るべし」ということになった。米沢は、しの土方暗殺を、長州藩出入りの武州脱藩七里研之助とその一味の「浮浪」に依頼した。武州八王子以来、七里は歳三に、遺恨を持っている。
── なあに、頼まれずともるさ。
と、七里は、二帖半敷町にじょうはんじきちょうつじで、歳三を要撃した。
その翌朝である。歳三が外島機兵衛らと島原木津屋に登楼って東雲大夫と初会の夜を持ったのは。
あの夜、歳三は、
(おれはどこか、片輪の人間のようだ。生涯しょうがいおそらく恋などは持てぬ男だろう)
と思った。
(人並みな事は考えぬことさ。もともと女へ薄情な男なのだ。女の方もそれがわかっている。こういう男にれる馬鹿が、どこの世界にあるもんか)
しかしおれには剣がある。新選組がある、近藤がいる、としきりに自分にいきかせていた。
(それだけで十分、手ごたえのある生涯が送れるのではないか。わかったか、歳)
そんなことを思いながら、歳三は、あの夜京の町を歩き、途中立ち寄ったよし駕籠の家の近所で七里研之助の徒党を斬り、しかもその翌夜、島原木津屋の楼上で酒を飲んだ。
もともと奇妙なこの男を、東雲大夫がいっそう奇妙に思ったのは、むりはなかった。むろん会津藩公用方外島機兵衛は、そういういきさつまで知ろうはずがないのである、。
「まあ、あれはあれで」
と外島は言った。
「洛中の一人物ですよ。あるいは、兵の用い方は近藤よりも数段上かも知れない。むかし太閤たうこう秀吉は大谷刑部ぎょうぶを評して、あの男十万に大軍をして軍配をとらせてみたいと言ったそうだが、私は土方を見るたびに、そんな気がする。
2023/10/07
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