~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
お 雪 Part-03
「いや、恐縮です」
歳三は、土間へ入り、そのまま台所の奥の内井戸うちいどまで行き、そこでまず素はだかになった。
どろと血を洗い落すためであった。
「お内儀ないぎ、あつかましいが」
奥へ声をかけた。
声は、ひそめている。近所をはばかってのことである。
「このたなの上の焼酎を所望したい」
大きな鉄釉てつゆうの壺が載っている。壺の腹に紙がってあり、
── せうちう。
とみごとなお家流で書かれてある。
(どうやら、女世帯らしい)
が、下戸、上戸を問わず、当時は、どの家にも傷手当の用意に焼酎は用意されていた。
「あの」
落着いた女の声が戻って来た。
「どうぞお使い下さいますように。金創きんそうの薬もございます。白愈膏びゃくゆこうと申し、調合所は大坂京町掘の河内屋で、なかなか卓効あると申しますが、いかがなさいますか」
しずかな物の云いようだが、ことばに無駄/rb>むだがなく、頭のよさを感じさせた。
「遠慮なく、頂戴ちょうだいします」
歳三は、その女のことを考えた。言葉に、京なまりがない。
どうやら、武家女のことばである。
「何者だろう」
さっき格子戸/rb>こうしどをあけて中へ入れてくれたとき、歳三はころがりこむようにして土間に入ってから、ふと顔をあげた。
その時、女は、蝋燭/rb>ろうそくの腰に紙を巻いた即製の手燭てしょくを、ちょっとかざすようにして立っていた。
すぐ通り抜けの台所へ入ったが、あの時、女の意外な美しさに息をのむような思いをしたのを覚えている。
としは、二十五、六で、身につけているものからして、娘ではない。かといって、夫が居そうにはなかった。
せまい家だ。
様子でわかるのであえる。
(痛い。──)
みる。焼酎が沁みた。
さすがの歳三も気を失いそうになった。
まわし一本の姿で、歳三は井戸端にかがんでいる。自分で自分の傷をあらうのいだ。よほど豪気でないと、このまね・・はできない。
内儀は、いつの間にか来て、土間のむこうで、遠灯とおびをかざしながら、それを見ている。
近づかないのは、武家育ちらしいたしなみというものだろう。
歳三はそれでも、傷口にあぶら・・・をぬり、内儀の出してくれたさらし・・・で三ヵ所の傷口をしばり、
「すまぬが、そこの町木戸の番小屋にそういって、辻駕籠つじかごを呼ぶように申し付けてくれませんか」
「どなた様です」
「え?」
傷が、鳴るように痛む。
「あの、あなたさまは、──」
内儀は、たずねた。
「ああ、申しおくれましたな。新選組の土方歳三、と申していただければ、町役人がよろしく取り計らってくれるはずです」
(この人が。・・・)
歳三の名は、京洛けいらくで鳴りひびいている。
泣くもだまる、というのは、この男のばあい大げさな表現ではない。
「たのみます」
「────」
女は黙ってうなずき、土間のすみに手を差し入れている様子だったが、やがてかさを出して、出て行った。
2023/10/10
Next