~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
お 雪 Part-04
ほどなくきしものさわやかな高下駄の歯音をたてて戻って来た。
歳三の衣料は、雨と血でよごれている。
「もしおおろしければ」
女は、ひとかさねの黒木綿の紋服を、みだれかごに入れて持ち出して来た。羽織、袴だけでなく、襦袢じゅばん、六尺に切ったさらし さらしまで揃えてある。死んだ亭主のものだろう。
それを土間においた。
(気のつく女だな)
歳三は、顔をあげ、蝋燭の灯影ほかげでおんなの眼を見た。どちらかといえば京の顔だちではなく、江戸の浅草寺せんそうじの縁日などに参詣さんけいに来ているおんなに、こういう顔だちがある。
眼がひとえ・・・で、色が浅黒く、くちもとのかげがつよい。
「あんた、江戸のひとだな」
歳三はしりのあがった多摩弁で言った。
「───」
女は、癖で、まばたきのすくない眼を見はって歳三をみつめていたが、やがて、
「ええ」
というように、うなずいた。
「名は、なんと申される」
「雪と申します」
「武家だね」
「───」
女は、黙った、言わずとも、知れている。
「いや、京で江戸うまれの婦人に会うことは稀なことだ。今夜、私は運がよかった」
(しかし江戸の女がなぜ、こんな町でひとり住まいしている)
歳三は疑問に思ったが、口には出さず、乱れ籠の上を、掌でおさえるようなしぐさをして、
「それは、ご厚意だけ頂戴しておく。まだ血がとまらぬというのに、せっかくのお大事のお品をけがしては申しわけない」
歳三は、褌一つ哂でぐるぐるしばりの姿のまま、大小をつかんで立ち上がった。
「そのまま、御帰陣なさいますか」
新選組副長ともあろう名誉の武士が、といった眼の表情である。
「お召しくださいまし」
うむ・・を言わせず、命ずるように言った。歳三は、立ちくらみそうになるほどの思いで、この女が命じた歯切れのいい響きをなつかしんだ。京の女には、ない味である。江戸の女は、親切とあればおさえつけてでも、相手を従わせてしまう、
(ああ、忘れていた味だ)
歳三は、御府内のそとの片田舎の生まれである。少年のころから十三里むこうの江戸の女にあこがれた。
その思いが残っているために、ひとがいという京の女に、どしてもなじめない。
「では、拝借する」
手を通して驚いたことは、歳三と同じ左三巴ひだりみつどもえの紋である。
「奇縁だな」
歳三は、紋を見つめた。
(この女と、どうにかなるのではないか)
女は挙措きょそをきびしくひかえめにはしているが、その眼に、あきらかに歳三への好意がある。
その好意が、おなじ東国うまれ、という単なる親しみから出たものか、それとも、男としての歳三その者へえの好意なのか。
やがて、家主、差配やもり、町役人が、あいさつと見舞いにやって来た。
家主は表の質舗しちみせ近江屋おうみやで、差配は、治兵衛という枯れた老人である。
「いずれ、礼に来ます」
歳三は、彼らに見送られて辻駕籠にに乗った。
2023/10/11
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