~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅶ-Ⅱ』 ~ ~

 
== 『 燃 え よ 劍 ・上 』 ==
著 者:司馬 遼太郎
発 行 所:㈱ 新  潮  社
 
 
 
 
 
お 雪 Part-05
屯営とんえいでは、大騒ぎをしていた。
小者の藤吉の報せで、原田左之助、沖田総司の隊が現場に駈けつけたところ、付近に、死体も人もいない。
しかも歳三は屯営に戻らない。とあって市中の八方に隊士が捜索にすっ飛んだ。
そこへ歳三が火熨斗ひのしのよくきいた紋服を着て戻って来たのである。
「どうなさったのです」
隊士が聞いても、にやっと笑うだけでさっさと式台へあがり、自室にひきとった。
すぐ外科をよび、手当を仕直して貰った。
医者が帰ると、沖田総司が入って来た。
「ひとさわがさえですねえ」
「すまん」
「どうなさったんです」
「越前福井藩邸の前で、また七里研之助のやつが現れやがった、あいつはおれのものだよ」
「結構な憑きものだ」
沖田は、柄巻つかまきが、雨と血で濡れている歳三の和泉守兼定を抜いた。刃こぼれ、血の曇りがおびただしい。
「お働きのご様子ですね」
られかけたさ。あいつらは、長州の京都退却後、土州藩邸か薩摩藩邸にかくまわれているのだろう。十津川のやつもいた。その連中を、七里があご・・で使っている様子からみて、もう京都では相当な顔にのしあがっているらしい」
「なんでも、探索の連中の話だと、七里は、つねづね、土方だけはおれがやる、と言っているらしいですよ」
たたりゃがるなあ」
「うふ」
沖田が笑った。(あんたの昔の素行が悪いのだ)といった、悪戯いたずらっぽい眼である。
「ところで総司」
歳三は、生きいきとした眼で言った。
「おらァ、女にれたらしいよ」
「え?」
沖田は、まぶしい表情をした。
歳三が、かって、
惚れた。
などという言葉を、女に関して使ったことがなかったからである。
「隊の者には黙ってろよ。近藤が芸州から帰って来てもいっちゃならねえ」
「じゃ、私にも云わなきゃいいのに」
「お前だけは、べつさ」
「私だけ別? 迷惑だなあ、訴え仏みつぃにされちゃった」
「ふふ、お前にはそんなところがあるよ」
十日ほどして歳三、洗い張りをして縫いかえた例の衣類一さいを小者に持たせ、家主の近江屋へ出向い。家主は、差配の治兵衛老人も呼びつけて同席させた。
聞けば、女は、大垣藩の江戸定府じょうふ御徒士おかちをつといめていた加田進次郎という者の妻女であるという。藩が京の警衛を命ぜられると、加田は単身、藩兵として京にのぼった。単身は当然なことで、どの藩でも、上士下士を問わず、妻子を連れて京にのぼっている者はない。
しかし、お雪は、風変りなところがあり、夫のあとを追って京にのぼり、藩には遠慮し、ひそかに町住いをした。それほど夫婦仲がよかった、というわけではない。
お雪、画才があり、のちに紅霞こうかという号で多少の作品を、京、東京に残している。画技は、その人柄ひとがらほどのものではない。
京にのぼったのは、京の絵師吉田良道ながみちについて四条丸山まるやま派の絵を学ぶためであった。ほどなく夫が病死した。
お雪は、ひとり京に残された。すぐ江戸の実家さとへ帰るべきであったが、実家が寛永寺の坊官で収入みいりがいい。その仕送りがあるまま、なんとなく、日を消している。
2023/10/11
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